はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼文化人類学解放講座・答案解放その3
【感想】
d0016471_0591823.jpg まず、これらの答案のなかには、「ショッピングの時代」に、「グローバリズムの世界」と「資本主義の社会」で、大量の商品やモノに囲まれ、来る日も来る日も、終わりのない消費に明け暮れながら生きるというのは、いったいどういう「感じ」がするものなのかを、自分自身の体験や実感にもとづいて観察し、考え、それをコラージュやグラフィックデザインを使って視覚的に記述し、表現したものがあります(上の画像はそれをWEB用にサンプリングして、リミックスしたものです)。

 これは僕たちがいま生きている資本主義社会についての「同時代のエスノグラフィー」あるいは「自文化のフォークロア」としてみることができます。もし仮にそれにタイトルをつけるなら「This is what our life looks like」とか「This is what our life feels like」ということになるかもしれません。そこには「~は~である」という定義ではなく、もっとリアリティをもった「実感」や、共有可能な「感覚」が描かれているように思えます。「文化人類学解放講座」の「講義の指針」として、講義のサイトに次の文章を載せていましたが、これらの答案はまさにこの言葉に裏づけを与えてくれたように思います。

 「民族学とは、未開社会という特殊な対象によって定義される専門職ではなく、いわばひとつのものの考え方であり、[民族学者になりそこねて]、自分の社会に対して距離をとるならば、私たちも[同時代の]自分の社会の民族学者になるのである」(モーリス・メルロ=ポンティ)

 この一年間の講義では、結局、文化人類学の教科書や民族誌を一冊も読まなかったので、みなさんは「異文化の民族学者」に見事になりそこねましたが、かわりに自分の社会の民族学者になりはじめてくれたようです。

d0016471_165885.jpg また、ここには「グローバリゼーション」という、いま、まさに僕たちの身のまわりで起きている「ち、き、ゅ、う、の、じ、け、ん」に対するはっきりとした意見陳述と態度表明があります。この「文化人類学解放講座」では、文化人類学のもともとの「原点」にあった「文明批判」と「植民地支配に対する抵抗」の精神をもう一度とりもどし、それを最新の文明であるテクノロジーやメディア、そして「新たな植民地支配」である「グローバリゼーション」に対して向けなおすということを行いました。そこでは、みなさんたちよりも一足先にテクノロジーやグローバリズムの問題に気づき、それに疑問を感じ、やがてそれに反対し抗議し抵抗するアクションや作品づくりををはじめた作家やアンチ・グローバリズムのアクティヴィストたちを数多く紹介しました。つまり、グローバリゼーションを学問的に定義するのではなく、それに反対する人たちの声や話にまず耳をかたむけ、その抵抗の行動や表現を見て、いわば逆むきに、あるいは、その裏側の方からグローバリゼーションを考えてゆくということをしました。

d0016471_1133094.jpg そこでは、テレビなどのマスメディアでは放映されない(実際に放映されなかったし、おそらくこれからも放映されない)ニュースやドキュメントをできるだけたくさんみました。それを通じて、第三世界のそのまた「周辺」の世界(=第四世界)に存在するスウェットショップとそこで働く女性や子供たちの実態について知り、またメディアの目の届かないところ(あるいは多すぎる情報や情報操作によってカモフラージュされているメディアの裏側と周辺)で起きているブラック・ブロックやアドバスターズ、リクレイム・ザ・ストリート、ホイールマート、ジャンアントパペットなどのユニークでクリエィティヴな「新しい抗議の文化」にふれました(こんなふうに「周辺」に焦点をあて、WEST(西欧)ではなくそのREST(余り)の世界の方に目をむけるのも文化人類学の特徴のひとつです)。

 映像をたくさん使ったのは、映像にはことばでは伝えきれない多くの情報が含まれ、出来事や事件にリアリティを与えるからですが(映像の世紀に生まれ育った僕らはいまや映像がないとそれが真実だと感じられなくなっています)、そうした現実感や信憑性だけではなく、人の顔が見え、その声がきこえる映像は、具体的な他者に対する共感や同情をよびおこし、眠っていた想像力や思考にショックとインパクトを与えることのできるメディアだからで、その効果はできあがってきた答案をみれば一目瞭然です。

 答案では多くの人たちがグローバリゼーションを遠いよその国や社会で起こっている他人事ではなく、自分の問題として意識し、これまでの自分のものの考え方や生き方について疑問をなげかけ、自分の身のまわりにある、持ちものや着ているもの、食べもの、すなわち生活の基本である衣食住と娯楽を改めて見なおし、反省し、考え、迷い、そしてまた考え、ほんの少しだけれど、それまでとは違う視点からものを考え、すこし変わりはじめてくれたようです。それは、いまそこにある不平等や不正に対する驚きと怒り、また未来に対する危機感や警戒の念の表明というかたちで答案のなかにみてとれました。また答案づくりの過程で矛盾に直面し、解決方法が見つからず苦しみもがいたことや、いまの世界に対する失望や嘆きや悲しみを率直に書いてくれた人もいました。

d0016471_1214913.jpg 他方では、そこから一歩ふみだし、目の前にあるタフな現実に抵抗して想像力をフルに働かせ、講義の最後にみたトロブリアンドの人びとやブッシュマン、そしてデデヘーワの家族のような生き方はたとえできなくても、そこから学びとったものや呼び醒まされた感覚を手がかりに、「もうひとつの可能な世界」や「ギフトエコノミーの社会」に対する憧れや夢や希望を語り、そのために「いま自分にできること」を自分で考え、それを共有するためのアイデアを提出してくれた人もいます。

 さらに「宣言文」や「呼びかけ文」を書いてくれた人もいれば、「詩」や「漫画」をつくり、「実験の記録」や「記念写真」をとり、「気持ち悪さを体験するキット」や「ゲームを終わらせるゲーム」を工作してくれた人もいます。

 そんなふうに、それぞれが簡単には答えが見つからない問題にとりくみ(でも、考えてもみてください、グローバリゼーションに反対している人たちの中には、世界的に有名な学者や科学者、作家や芸術家たちもいて、その人たちですらまだ答えを出せていないのですから、そう簡単に答えが出てくるはずもありません)、たとえ満足のゆく答えは出せなくても、いま・ここで自分が考えついたことや感じたことをテストの常識にとらわれずに、それぞれ独自のスタイルと方法で本当に「自由」に「表現」できていたと思います。

 結果として、はっきりとした答えや解決が見つからず、断片的でまとまりに欠け、はじめと終わりとでは考えや主張が変わっていたりするような矛盾と混乱の多い答案がたくさんありました。テストの常識からすれば「よくない答案」ですが、この授業では、そういう自分で考えた痕跡のある答案ほど高く評価しています。もとより、こんなテストを受けるのははじめてでしょうし、そもそもこのクラスはアートのクラスでもなければ創作のクラスでもないので、できばえよりもまず、自分でものを考えることやものをつくることやおもしろさやよろこびがこちらまで伝わってくるような答案を高く評価しています。しかし、なかには、こちらがびっくりするくらい完成度の高いものもあれば、また、よんでいるうちに、涙が出てきそうな答案もありました。

 そういう答案をみながら「この一年間、講義をしてきた甲斐があった」と、思うと同時に「こんなに感受性が豊かで、自分でものを考える力のある人たちを前によく講義などできたものだ」とちょっと身のちぢむ思いもしました。

d0016471_1555554.jpg ひとつだけ残念なのは、はじめにも書いたように、このテストでは、答えみつけそこねた答案に別の答案が応え、さまざまな手がかりやヒントを示してくれていました。ひとつひとつの答案をみれば、そこには出口がなかったり、突破の可能性が閉じられていたりしますが、全体としてみれば、なにか非常に希望が感じられる答案になっていました。なので、もしこれが紙の上でなく、実際の対話であったなら、そこにいる人たちみんなでその希望を共有することができたでしょうし、対話のなかからもっとおもしろい方法が見つかったかもしれません。それがちょっと残念でしたので、来年はそういう場をつくる方法を考えてみるつもりです。

 ともあれ、文化人類学の講義としてはかなり変則的な講義だったのだ、この講義を受けた人は、ある特定の地域のことやあるトピックについては何でも知ってる「専門職としての人類学者」にはなりそこねましたが、かわりに立派なアマチュアになってくれたような気がします。そして、それもこの講義の指針のひとつでした。サイードはこう書いています。

d0016471_1515610.jpg 「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。... わたしは、自分の専門よりも広い領域の問題についてしゃべったり書いたりしているが、それはわたしが、自分の狭い専門活動のなかではなしえない社会参加を、純然たるアマチュアとしての立場でおこなおうとしているからである」(エドワード・サイード)

 この講義でグローバリズムの問題について思考し、深く憂慮した人は、いまやグローバリゼーションについてのアマチュア思考家になりはじめているので、今後も考えることをやめず、グローバリゼーションについて書き、話し、ものをつくり、そして機会があれば、社会参加というかたちで、その思考をより生きたものにしていってください。

 ここではもうこれ以上、付け加えることはありませんが、こうしてひとつづつ答案を書きうつしてならべかえ、それについての感想を書きながら不思議に思ったのは、この講義で僕は、たしかそんなことまで話した覚えはないのに「いったいどこでそんなことを覚えたのだろう」とびっくりさせられるような答案がたくさんあったということです。

d0016471_23445779.jpg 実を言えば、この講義にはノートというのがなくて、いつもその場で考えたことを話したので、自分が何を話し、何を教えたのかほとんどおぼえてません。そもそも「教えた」とすら思ってもいません。一番最初の講義で話したように(そして、いつも話すように)僕には「教える=教育」という意味で、人に「教えられる」ような職業的で専門的な知識は何ひとつなくて、せいぜい僕にできるのは「教える」の、もうひとつの意味である「知らせる」という意味での「教える」でしかなく、この講義で僕がやったのは、他ではあまりみる機会のない、しかし、いま見ておかないといけないと思う映画や、知っておかないといけないと思う映画や出来事のことを知らせ、それを一緒に見たり、一緒に考えたりするということだけだったので、それがひととおり終わった以上、ここでもうつけ加えることはないのです。

 そういえば、こういう感想を書いてくれた人がいました。

 「学校に通っていて、おもしろい授業にはいつくかめぐりあいました。しかし、この授業のような、自分をとりまくものの捉え方を変えられてしまう感覚ははじめてでした。でも、先生は私たちに答えを教えてはいないと思います。まだ私はきっかけを教えられたにすぎません。考えるきっかけを。とても不安定な気持ちですが、可能性もひろがったような気がします。大人になる前にこの授業をうけることができてよかったです」。

 おそらくこれは本当で、僕がこの講義で「教えた」のは情報や映画や本ではなく、「きっかけ」だったのだなと、この感想に逆に「教えられ」ました。もしかすると、いくらかは反抗の精神も教えてしまったかもしれません。たしかに反抗される側からすれば、反抗は煩わしいものかもしれませんが、しかし反抗は決して「悪」ではありませんし、相手が間違ったことをしている場合、それに服従せず、反抗するのは、正しいことでもあるので、どうか安心して、おかしいとか変だと思ったものにはどんどん反抗してください。

 話がそれたので、さっきの感想に話を戻すと、もともと文化人類学というのは「異文化の理解」を目的とした学問ですが、それは必ずしもゴールではなく、文化人類学が最終目的とするのは、異文化の生活や知を通じ、自分が属している自文化とその社会、そして、そこでの生き方について批判的あるいは反省的に考えなおし、「人間とは何か」について考えることが最終ゴールなので、この講義で「自分をとりまくものの捉え方」が少しでも「変わった」としたら、特定の地域や文化に関する専門的な知識は得られなかったにしても、「文化人類学」の講義としては、まずまず成功したといえるかもしれません。

また「現代美術」というのは、ファインアートや商業デザインのように人を喜ばせたり、いい気分にさせるのではなく、あえて人を不快な気分にさせたり、嫌悪感や不安感を与えて、眠っていた人の思考や感覚をゆさぶり起こすものなので、「不安定な気持ち」になったのは申しわけないですが、そういうものなのだと理解してください。

d0016471_134318.jpg そう考えると、ずいぶん乱暴な講義ですが、それには理由があって、講義のときはいつも、これまでの講義の常識が通じない「他者」や、テストの常識をひっくりかえす「野蛮人」として皆さんの前に立つように心がけていたので、文化人類学が美徳とする異文化と他者に対する寛容の精神をもって、そのへんは、どうか理解してください。

 最後にあともう一言だけ云うならば、「グローバリゼーションの世界」と「もうひとつの世界」については、僕も、この答案に書かれていたのと、だいたいおなじようなことを考えています。そして、今回の答案をよみ、そこで漠然とみえてきたひとつの流れにそって、それをならべなおしてみた時、これから先、自分の考えや仕事を進めてゆくべき方向がなんとなく見えてきたような気がしています。やはり、こういう時代や社会だからこそ、おそれず、ちゃんと「理想」と「人間」と「物語」を語るべきなのだと思いました。それが、この答案から「教えられた」ことの、もうひとつです。

 来年の講義では、映画のほかにアシュラ・K・ル=グインの本などもとりあげ、現実に対抗するファンタジーや想像だけでなく、それよりももっと「大きな物語」である「コスモロジー」の話をしようと思っていますし、さらに「想像力」だけでなく「構想力」と「ものをつくる」ことにも重点をおきたいと思っています。しかし、それはまだ先の話です。

 それでは、どうかよい春休みを。

 このつづきは、春に。
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by mal2000 | 2003-09-11 21:39
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