はじめに
指導教授は にこやかな顔で 言いました。 自然科学のような ふりをしてる詩を 学んでみてはどうかね? そんなことが できるんですか!? 指導教授は 私の手を握って 言いました。 社会人類学もしくは 文化人類学の世界に きみを歓迎するよ。 カート・ヴォネガット 人類学者というのは、 作家、小説家、詩人に なりそこねた人たち なのです。 J・クリフォード その他のジャンル
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映画「神さまたちは頭がおかしくなったにちがいない」(1981年)は、 (かつて「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカの)カラハリ砂漠に暮らす サンの人びとの、おおからなものの考え方や朗らかなキャラクター、 そして平和で、満ち足りた、楽園のようなライフスタイルを 描きだすことで、それとは対照的な、 文明社会の物質文化の中で、時間に追われ、 機械にふりまわされながら、あくせく暮らす私たちの (サンの人の目から見れば「頭がおかしくなった」としか 思えないような)ものの考え方やライフスタイルを 改めて問いなおさせてくれる、コミカルな風刺と 鋭い文明批判(*この「批判」という日本語はやや 語感が強いので「批評」ということにします)を含んだ 現代版の「高貴な野蛮人」のものがたりです。 ちなみに、この映画が制作されたのとちょうど同じ頃、 北アメリカでは、ゴドフリー・レジオが、 アメリカ先住民であるホピ・インディアンの 「バランスのこわれた世界」という予言の ことばをモチーフに、映像と音楽のみによる、 美しくもおぞましい文明批評のドキュメント映画 「コヤニスカッティ」(1983年)を制作しています。 圧倒的なスケールの映像でつづられてゆくこの作品は 文明批評の「一大スペクタクル叙事詩」とでも呼ぶべきもので、 「神さまたちは」と同様、80年代にこの作品が公開された当時は もっぱら「文明批評」という観点から論じられていましたが、 それから約20年が経った今、このふたつの作品を 「グローバリズム批評」の先駆的な作品として見なおす こともできますので、この講義ではいずれそうした視点から この二つの映画をもう一度見なおしてみたいと考えています。 では、「神さまたちは...」に話をもどします。 云うまでもなく、この映画はフィクションであり、 現代の寓話として「つくられたもの」です。 (例えばイソップ童話の「都会のねずみと 田舎のねずみ」の物語の構図を思い出して みて下さい、それとどこか通じるところは ないでしょうか) また、参考として、次の文章を読んでみてください。 陽が昇るから、目を覚ます。 目を覚ますから、腹が減る。 腹が減るから、狩りをする。 狩りをするから、メシ食える。 メシ食えるから、金いらない。 金いらないから、仕事しない。 仕事しないから、時間がある。 時間があるから、遊んでる。 遊んでるから、不満がない。 不満がないから、ケンカがない。 ケンカがないから、気分がいい。 気分がいいから、眠くなる 眠くなるから、陽が沈む。 陽が沈んだら、あと知らない。 だから、アフリカ平和です。 だから、僕らは これは、この映画が日本で封切られたとき、その配給元であった 東宝東和の宣伝担当者が、映画のパンフレットのために書きおろした 「ブッシュマン宣言」という文章です。ご覧のように、この宣言文は、 詩のような文体で書かれていて、サンの人びとの暮らしの素晴らしさを うたいあげたサン賛歌のようなものとして読むことができます。ただ、 このすぐ後で指摘するように、この文に問題がないわけではないのですが、 それでもやはり、これが名文であることは否定できず、まずは 素直に「うまいなぁ」とつくづく感心してしまいます。 とはいえ、この出来すぎた宣言文から、うかがえてしまうように、 この映画では、現代の文明社会を批判しようとするあまり、 サンの人びとの社会と暮らしが過去の時の中にとじこめられて、 過剰に理想化され、美化され、そして、文明とは遠く隔てられた 「ネヴァー・ランド」のような、どこか遠い場所(邦題では 「ミラクル・ワールド」というフレーズもつけられてました)に 隔離されてしまっていることに気がつきます。 こうした隔離は、この映画の公開当時、南アフリカでまだ続いていた 人種隔離政策(アパルトヘイト)を支持するものではないにしても、 それと同じ構造をもっていて、「我々はこちら、彼らはあちら」という 分離の発想につながるものなので、それを指摘する批評家もいましたし、 この映画が公開された当時も、そして今も、アフリカで、決して平和と 呼ばない状態が続いていることは、ニュースが伝えるとおりです。 そしてなによりまず、現実のサンの人びとの暮らしは、 決してこの映画のようにハッピーなものではなく、 それは、この映画から約20年後に制作された ドキュメント作品「ナイナイへの旅」のなかで、 主人公のカイを演じたニカウ氏が語るとおりです。 まずはそのことばに耳をかたむけてみることにしましょう。 ダニエル・リーゼンフェルド監督 「ナイナイへの旅 Journey to NyaeNyae」 1990-2003年 25分 1990年 「これが本当の姿なんだよ」「のどかな生活は映画作家のファンタジーだった」 2003年 「亡くなった人には映画で会うことができる、映画は過去の記憶なんだよ」 そして、ご覧のとおり、このドキュメント映画は、2003年7月3日の ニカウ氏の死とその葬儀の様子を伝えて終わります。 Africa's movie star bushman dies. A Namibian bush farmer who shot to worldwide fame in the 1980 film comedy The Gods Must Be Crazy has died. N!xau, whose name is pronounced with a southern African click, starred as a Kalahari bushman who found a Coca Cola bottle- an alien object to his tribe. He was found dead near his home in Namibia after going out to collect wood. He was believed to have been 59 years old. "Apparently he went out to find wood on Tuesday and never returned," Mireschen Troskie- Marx of Mimosa Films, which produced the movie, said. "His family went out looking for him and he was found dead in a field. We believe it was of natural causes." *なお、これは余談ですが、かつて「ブッシュマン」と呼ばれ、世界中から愛された このニカウ氏とアメリカ大統領の「ブッシュ」がほぼ同じ年齢の地球人だというのは、 なんとも皮肉な話です。 残念ながら、ニカウ氏は亡くなりましたが、 インタビューの中で彼がそう云っていたように、 映画を通じて私たちはいつでもカイに会うことができます。 たとえブッシュマンにはなれなくても、映画の中の カイのことばや行動から何かを学ぶことはできます。 たとえ、それがファンタジーや寓話である、としてもです。 フランスの現代思想家のフランソワ・リオタールは、 社会科学者というのは「空想力よりも現実のほうが 豊かだと考える人たちだ」といっていますが、逆に、 現実よりも空想力のほうが豊かだと考える芸術家や 詩人、映画作家という人たちもいるのですから、 これはどっちもどっちで、ファンタジーかリアリズムか、 と、なにも二者択一的に、その立場や見方を決めて しまうこともないでしょう。そもそも、この講義は、 「文学部」の講義なのですし、講師も半分は人類学者で、 半分は美術家なのですから、ファンタジーや寓話は 現実ではないから、という理由だけで切り捨てたりせず、 そこから学べるものは学ぶという姿勢で、これからも こうしたフィクションを積極的にとりいれ、いくらか、 それに染まりながら、紹介してゆきたい思っています。 でも、魂は少しも変わってない。 どんなに時がたっても同じだよ。 とりわけ、グローバリズムによって、世界の文化や 暮らしが、どこでも同じ単一の現実の中に押し込め られようとしている時代だからこそ余計に、そこから はみだしてゆくブッシュマンのような生き方や暮らしが、 オルタナティヴな人間の生き方や暮らしとしてありうる、 ということを、この講義で示してゆけたらと思っています。 ところで、人類学者のクロード・レヴィ-ストロースは、 「野蛮人とは、まちがって野蛮人だと思いこまれて しまった人びとのことだ」と述べて、それが迷信であること、 そして野蛮人というのは幻想にすぎないと述べましたが、 さらに云えば、野蛮人というものを考えだしてしまう 思考そのものが野蛮だともいえます。いいかえれば、 野蛮人とは、野蛮人がいると信じて疑わない その野蛮な精神の中にこそ存在するということです。 なんだかディズニーランドで語られている ミッキーマウスの話に似ているので、 これをアレンジした話で、ひとまず、 今回の講義をしめくくることにします。
by mal2000
| 2005-01-30 08:21
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