はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼オルタナティヴ人類学
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▼「オルタナティヴ人類学」 (*画像をクリックすると拡大します)

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d0016471_237777.jpg「私のやっている文化人類学の方からみても、単純で小規模な社会や文化の中に生きる人間ほど、個人が制度的なものの支配を受ける度合いが少ない。それが農耕や牧畜をはじめ、多くの基本的な技術の発明によって、社会的な結合の範囲が拡大していくにしたがって、個人はますます大きな超個人的な力の支配を受けることになった。国家の支配、権威の支配、慣習の支配、神の支配、一言でいえば、最も広い意味での文化の支配である。人間は自分の作りだした文化という怪物のために、朝から晩までキリキリ舞いさせられるばかりで、自分の力ではこの怪物をどうにもコントロールできないという、大変なことになってしまった。私のやっている学問も、人間をこのように金縛りにできる文化というものの全体を対象とした科学だと考えているのだが、最近、あちこちでとりあげられるようになったその応用論は、いずれも人間が人間を少しでもより巧妙に支配するための技術を考案しようという意図に出たものとしか思われないようなものばかりである。ところが、不幸にして私は、どんな意味においても、支配されるということに我慢ができない。また人を支配することもいやである。帝国主義の支配、階級の支配、組織の支配、伝統の支配、コマーシャリズムの支配、流行の支配、およそいかなる支配でも、支配という事実が意識されると、もう堪えがたい自己嫌悪に陥ってしまう。そういうアマノジャクな頭のなかで、ひとりひそかに私の考えている新しい科学といえば、支配の学に抵抗する科学、いわば反支配の学ともいうべきものである。現代の社会科学や心理学や人類学にだっいて、文化の呪縛から少しでも人間を自由にするための方法が求められないわけはあるまい。だが、本当のことをいうと、やはり信じて支配されるというのが、いちばん幸福なのでなかろうか。ことに、天皇陛下でも、星条旗でも、ハーケンクロイツでも、スターリンでも、その万歳を叫んで死んでいけるような偶像のもてる人たち、もっと正確にいえば、偶像をもたされた人たちの方がはるかに生きがいのあるの人生を送っているのかもしれない。ことごとに権威を疑い、異端をとなえて、反支配の学の樹立など企てているのは、さてさてシンドイことではある。」(石田英一郎)

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d0016471_2371973.jpg「民族学は西欧文明と未開文明とのあいだに設けられた唯一の橋であるようにみえる。つまりもしこの両極のあいだにまだ対話が可能であるとすれば、西欧にそうした対話をはじめさせられるのは、民族学なのである。もちろん古典的な民族学ではだめだ。しかし、いまひとつの別の民族学にとっては、それのもつ学識が、限りなくゆたかで新しい言葉を鍛えあげることを可能にするだろう。したがって、ある意味で。民族学が科学であるとするならば、民族学は同時に科学とは別のものでもある。」(ピエール・クラストル)

d0016471_2373341.jpg「国家とか国境で区切ってこないような、そういう学問をたてられないだろうか。さらにいえば、これまでの学の体系というのは多かれ少なかれ、強者の考え方、強い人たちの考え方を反映しています。先ほどから、女、子どもとかいう言葉、何回もでてまいりましたけれども、そういう風なことから言うとですね、オモテ学に対して、ウラ学というものを立てることができるのじゃないか。最近会った優れた日本史学者によると、この学問では、ケース付きのA版の書物を書かないと、学者として一人前ではないのだそうだ。これはずいぶんと固苦しい自己規定だなと思う。それに学者たちが紀要、研究誌に発表している文章になんと悪文が多いことか。これはほとんど完全に、民衆、読者を無視した態度だ。アカデミズムのありようがこのようなものであるのなら、私はますます反対の方向へ進みたくなる。私の思考の根底には、アカデミズムへの違和感がある。私は、民間学固有の方法など無いと思う。民間学とは、学問を中心とした、おそらく日本特有の、集団行動への批判である。それは思想や知的運動の態度であって、方法の問題ではない。方法の問題として立てると、またまた洗練や抽象の方向へ向かってしまって、せっかくの生きいきした生命力が失われてしまう。民間学は、いくらか野暮ったくあいまいさを残したレベルにとどまった方がよい。それがアカデミズムを批判する、かそけき方法である」(鶴見良行)

d0016471_2382872.jpg「世界を変えようと決意を固め、思慮深い市民たちからなる小さなグループの力を決して否定してはいけません。 実際、その力だけがこれまで世界を変えてきたのです。」(マーガレット・ミード)

d0016471_11574781.gif「わたしは学習指導教授のところへゆき、自然科学にはどうしても興味が持てず、詩の世界にあこがれていますと告白しました。指導教官はにこやかな顔で言いました。「自然科学のようなふりをしている詩を学んだらどうかね」 「そんなことが可能なんですか」 指導教授はわたしの手をにぎって言いました。「社会人類学ないし文化人類学の領域にきみを歓迎するよ。」 (カート・ヴォネガット)

d0016471_12254821.jpg「もし、それで満足できなければ、文化人類学のようなふりをしてる、もうひとつの人類学、ないしは、オルタナティヴ人類学を学んでみてはどうですか。「文化人類学解放講座」にみなさんを歓迎しますよ。」(イルコモンズ)
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(おまけ)
「バファリン成分分析」による文化人類学の成分分析結果
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by MAL2000 | 2005-03-08 21:51
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