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はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼WHAT IS "NOT" ANTHROPOLOGY?
▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_2261616.jpg「私の方法の基本原則は [...] こうです。
その当の学問みずからが「~である」と
云ってることを決して信用しないこと、
決してそれをスタートやゴールにしないこと、
そのかわりに、こう問うこと、人類学者たちに
それぞれ意見の食い違いがあるなかで、
彼/女たちが口をそろえて「~ではない」
と言っているのは何だろうか? [...] 
(というのも)、人類学では「~ではない」
というアピールこそが、より確固としたかたちで、
この学問の共同体とその慣わしを
規定しているからです」。
(ジェイムズ・クリフォード)


文学部の皆さんならご存知のとおり、「テクストに逆らって読む」というのが、
いまどきの文芸批評のイロハですから、ここでクリフォードはそのやりかたで
人類学を読解してみせているわけですが、残念ながら現在は絶版になった
J.S.ラ・フォンテーヌの「What Is Social Anthropology?」(1985年)
という初級者向けの人類学の教科書でも人類学を「人類学ではないもの」
から区別するというやり方で人類学を説明しています。

▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_3271274.jpgこの講義で「人類学者になりそこねた人びと」や
「人類学者になりすました人びと」の作品や言動を
通して文化人類学を知るというやり方をとったのも、
実はこの流儀にならったもので、「文化人類学(者)
ではないもの」、いいかえれば、キワモノや紛いモノの
人類学(者)に焦点をあてることで、そこから逆に、
ホンモノのザ・文化人類学(者)とはどんなものかが
わかってくるという、そういうしかけになっているの
ですが、こんな風に、他のものとの違いに注目し、
その違い(=差異)と共通点からものごとを見てゆく
というやり方自体が文化人類学の特徴でもあるのです。
では、文化人類学者たちが口をそろえて
「私たちは~ではない」と云っているものとは
何(誰)なのでしょうか。クリフォードによれば、こうです。


▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_3501696.jpg一、私達は植民地行政官ではありません
  (私たちは統治する者ではありません)

一、私達は宣教師伝道師ではありません
  (私たちは文化を改めさせたりしません)

一、私達は旅行家作家ではありません
  (私たちは客観性を重んじる科学者です)

#職種をクリックすると画像があります。

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▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_5195664.jpg[参考上映]
二〇世紀初頭の探検と
調査の記録映像
「Huteau Expediton」
(1911年 モノクロ 1分13秒)
「Last of the Bororo」
(1931年 モノクロ 22秒)
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▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_6563959.jpgこうした「~ではないもの」との区別化によって、ジャンルの
境界がもうけられ、モダンな学問、文化のサイエンスとしての
文化人類学のアカデミックな権威が確立されるのですが、
この権威を守るには、境界の中にうまく回収できないものを
排除する必要があります。「幻のアフリカ」というブログの
ような本を出版し、文学と人類学の境界をおびやかすような
実験を試みたミシェル・レリスが人類学者から大顰蹙をかって、
その当時は人類学の窓際部門ともいえる博物館勤務に
追いやられたのは、そのためです。

それから約半世紀がたち、ポストモダンと呼ばれる時代になると、
この境界に対する疑問が人類学の内側と外側からなげかけられ、
人類学者の視点や権威や立場が問い直されているところです。
これについては、また改めて紹介することにします。

▼WHAT IS \"NOT\" ANTHROPOLOGY?_d0016471_85327.jpg[補足]
・ボーダーレス時代の「人類学ではないもの?」
・形質人類学
# by mal2000 | 2005-02-06 01:59
▼野蛮な未開人の幻想と高貴な未開人のファンタジー
▼野蛮な未開人の幻想と高貴な未開人のファンタジー_d0016471_22463945.jpg「パパ、ぼく、アフリカは初めて?」
「学校ではたしか暗黒大陸だと」
「でも、明るいんだね」

これはA・ヒッチコックの映画
「知りすぎていた男」(1956年)の
冒頭シーンです。舞台は北アフリカの
モロッコ、カサブランカからマラケシュ
に向かうバスの車内で、ハンク少年が
父親のベンに話しかけたセリフです。
どうやらハンクは学校でアフリカが
「暗黒大陸」だと教わったようです。
おそらく、先週の講義でふれた、
スタンレーの探検記か何かを読んだ
のでしょう。こんな風に、ヨーロッパでは
昔からアフリカを「暗黒大陸」とよび、
そこには野蛮人たちが棲んでいる
とそう考えられていました。

▼野蛮な未開人の幻想と高貴な未開人のファンタジー_d0016471_5343498.jpg
そして、二〇世紀になっても、
ヨーロッパにとってアフリカは
依然として「秘境」であり、
その当時の最新のテクノロジー
(自動車、カメラ、録音機、映写
機)をもって挑むべき冒険と
探検の土地であり(いまなら、
コンピュータ制御のロケットで
しょうか)、テクノロジーの実験場
でした。今回は、そういう映画を
いくつかみてみましょう。

Armand Davis制作
「アフリカ大陸縦走」
(Wheels Across Africa)
(1936年 モノクロ)


Harry Fraser 制作
「アフリカの太鼓/密林の人」
(Drums of Africa/Jungle Man)
(1941年 63分 モノクロ )

Walter Futter制作
「アフリカは語る」
(Africa Speaks!)
(1930年 75分 モノクロ)

一方、こうした記録がはじまるはるか以前の時代、たとえば、16世紀には、
アフリカに住む"野蛮人(Savage)は、こんな姿の存在としてファンタジックに
イメージ=想像されていたようです。

▼野蛮な未開人の幻想と高貴な未開人のファンタジー_d0016471_23595420.jpg








ほとんどSF的ともいえる、この奇想天外なヨーロッパ人の想像力の方に
むしろ驚かされてしまいますが、19世紀になって、ルソーに代表される
自然賛美と原点回帰のロマン主義思想が流行すると、自然とともに平和
に暮らす汚れなき存在として「高貴な野蛮人(Noble Savage)」という
イメージが流行をはじめます。今回の講義では、この「高貴な野蛮人」の
現代版ともいえる映画「神さまたちは頭がおかしくなったにちがいない」
(邦題:ミラクルワールド ブッシュマン 改題:コイサンマン 1981年)を
観ることにします。

▼野蛮な未開人の幻想と高貴な未開人のファンタジー_d0016471_023137.jpgこうした「高貴な野蛮人」の話というのは、
ヨーロッパが自らを自己批判的にとらえ
るときに、くりかえし登場してくるもので、
この映画も現代社会に対する文明批判
という側面を持っています。


「神さまたちは頭がおかしくなったにちがいない」
(The Gods Must Be Crazy)
カラー 1981年 南アフリカ
ストーリーボードを見る
予告篇をみる

前回の講義でふれた「文明批判」ということにいま一つピンとこなかった
という人もいるでしょうから、それも含め、前回までの「緑の地獄」映画の
「暗黒さ」とはまったく正反対の善のイメージがやや過剰なくらい
おしつけられていることなどにも注意しながら観てみてください。
# by mal2000 | 2005-02-04 22:45
▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド


映画「神さまたちは頭がおかしくなったにちがいない」(1981年)は、
(かつて「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカの)カラハリ砂漠に暮らす
サンの人びとの、おおからなものの考え方や朗らかなキャラクター、
そして平和で、満ち足りた、楽園のようなライフスタイルを
描きだすことで、それとは対照的な、
▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_18143779.jpg

文明社会の物質文化の中で、時間に追われ、
機械にふりまわされながら、あくせく暮らす私たちの
(サンの人の目から見れば「頭がおかしくなった」としか
思えないような)ものの考え方やライフスタイルを
改めて問いなおさせてくれる、コミカルな風刺と
鋭い文明批判(*この「批判」という日本語はやや
語感が強いので「批評」ということにします)を含んだ
現代版の「高貴な野蛮人」のものがたりです。

ちなみに、この映画が制作されたのとちょうど同じ頃、

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_1819595.jpg北アメリカでは、ゴドフリー・レジオが、
アメリカ先住民であるホピ・インディアンの
「バランスのこわれた世界」という予言の
ことばをモチーフに、映像と音楽のみによる、
美しくもおぞましい文明批評のドキュメント映画
「コヤニスカッティ」(1983年)を制作しています。

圧倒的なスケールの映像でつづられてゆくこの作品は
文明批評の「一大スペクタクル叙事詩」とでも呼ぶべきもので、
「神さまたちは」と同様、80年代にこの作品が公開された当時は
もっぱら「文明批評」という観点から論じられていましたが、
それから約20年が経った今、このふたつの作品を
「グローバリズム批評」の先駆的な作品として見なおす
こともできますので、この講義ではいずれそうした視点から
この二つの映画をもう一度見なおしてみたいと考えています。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_1827726.jpgでは、「神さまたちは...」に話をもどします。
云うまでもなく、この映画はフィクションであり、
現代の寓話として「つくられたもの」です。
(例えばイソップ童話の「都会のねずみと
田舎のねずみ」の物語の構図を思い出して
みて下さい、それとどこか通じるところは
ないでしょうか)

また、参考として、次の文章を読んでみてください。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_20135167.jpg  陽が昇るから、目を覚ます。
  目を覚ますから、腹が減る。
  腹が減るから、狩りをする。
  狩りをするから、メシ食える。
  メシ食えるから、金いらない。
  金いらないから、仕事しない。
  仕事しないから、時間がある。
  時間があるから、遊んでる。
  遊んでるから、不満がない。
  不満がないから、ケンカがない。
  ケンカがないから、気分がいい。
  気分がいいから、眠くなる
  眠くなるから、陽が沈む。
  陽が沈んだら、あと知らない。
  だから、アフリカ平和です。
  だから、僕らはブッシュマン

これは、この映画が日本で封切られたとき、その配給元であった
東宝東和の宣伝担当者が、映画のパンフレットのために書きおろした
「ブッシュマン宣言」という文章です。ご覧のように、この宣言文は、
詩のような文体で書かれていて、サンの人びとの暮らしの素晴らしさを
うたいあげたサン賛歌のようなものとして読むことができます。ただ、
このすぐ後で指摘するように、この文に問題がないわけではないのですが、
それでもやはり、これが名文であることは否定できず、まずは
素直に「うまいなぁ」とつくづく感心してしまいます。

とはいえ、この出来すぎた宣言文から、うかがえてしまうように、
この映画では、現代の文明社会を批判しようとするあまり、
サンの人びとの社会と暮らしが過去の時の中にとじこめられて、
過剰に理想化され、美化され、そして、文明とは遠く隔てられた
「ネヴァー・ランド」のような、どこか遠い場所(邦題では
「ミラクル・ワールド」というフレーズもつけられてました)に
隔離されてしまっていることに気がつきます。

こうした隔離は、この映画の公開当時、南アフリカでまだ続いていた
人種隔離政策(アパルトヘイト)を支持するものではないにしても、
それと同じ構造をもっていて、「我々はこちら、彼らはあちら」という
分離の発想につながるものなので、それを指摘する批評家もいましたし、
この映画が公開された当時も、そして今も、アフリカで、決して平和と
呼ばない状態が続いていることは、ニュースが伝えるとおりです。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_20204869.jpg

そしてなによりまず、現実のサンの人びとの暮らしは、
決してこの映画のようにハッピーなものではなく、
それは、この映画から約20年後に制作された
ドキュメント作品「ナイナイへの旅」のなかで、
主人公のカイを演じたニカウ氏が語るとおりです。
まずはそのことばに耳をかたむけてみることにしましょう。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_21105775.jpg

ダニエル・リーゼンフェルド監督
「ナイナイへの旅 Journey to NyaeNyae」
1990-2003年 25分


▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_238446.jpg
1990年 「これが本当の姿なんだよ」「のどかな生活は映画作家のファンタジーだった」

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_2392027.jpg
2003年 「亡くなった人には映画で会うことができる、映画は過去の記憶なんだよ」

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_2319116.jpg
そして、ご覧のとおり、このドキュメント映画は、2003年7月3日の
ニカウ氏の死とその葬儀の様子を伝えて終わります。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_20215735.jpgAfrica's movie star bushman dies.
A Namibian bush farmer who shot
to worldwide fame in the 1980 film
comedy The Gods Must Be Crazy
has died. N!xau, whose name is
pronounced with a southern
African click, starred as a Kalahari
bushman who found a Coca Cola
bottle- an alien object to his tribe.

He was found dead near his home in Namibia after going out to collect wood. He was believed to have been 59 years old. "Apparently he went
out to find wood on Tuesday and never returned," Mireschen Troskie-
Marx of Mimosa Films, which produced the movie, said. "His family went
out looking for him and he was found dead in a field. We believe it was
of natural causes."

*なお、これは余談ですが、かつて「ブッシュマン」と呼ばれ、世界中から愛された
このニカウ氏とアメリカ大統領の「ブッシュ」がほぼ同じ年齢の地球人だというのは、
なんとも皮肉な話です。

残念ながら、ニカウ氏は亡くなりましたが、
インタビューの中で彼がそう云っていたように、
映画を通じて私たちはいつでもカイに会うことができます。
たとえブッシュマンにはなれなくても、映画の中の
カイのことばや行動から何かを学ぶことはできます。
たとえ、それがファンタジーや寓話である、としてもです。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_2321242.jpg


フランスの現代思想家のフランソワ・リオタールは、
社会科学者というのは「空想力よりも現実のほうが
豊かだと考える人たちだ」といっていますが、逆に、
現実よりも空想力のほうが豊かだと考える芸術家や
詩人、映画作家という人たちもいるのですから、
これはどっちもどっちで、ファンタジーかリアリズムか、
と、なにも二者択一的に、その立場や見方を決めて
しまうこともないでしょう。そもそも、この講義は、
「文学部」の講義なのですし、講師も半分は人類学者で、
半分は美術家なのですから、ファンタジーや寓話は
現実ではないから、という理由だけで切り捨てたりせず、
そこから学べるものは学ぶという姿勢で、これからも
こうしたフィクションを積極的にとりいれ、いくらか、
それに染まりながら、紹介してゆきたい思っています。

▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_20272011.jpg

でも、魂は少しも変わってない。
どんなに時がたっても同じだよ。


とりわけ、グローバリズムによって、世界の文化や
暮らしが、どこでも同じ単一の現実の中に押し込め
られようとしている時代だからこそ余計に、そこから
はみだしてゆくブッシュマンのような生き方や暮らしが、
オルタナティヴな人間の生き方や暮らしとしてありうる、
ということを、この講義で示してゆけたらと思っています。

ところで、人類学者のクロード・レヴィ-ストロースは、
「野蛮人とは、まちがって野蛮人だと思いこまれて
しまった人びとのことだ」と述べて、それが迷信であること、
そして野蛮人というのは幻想にすぎないと述べましたが、
さらに云えば、野蛮人というものを考えだしてしまう
思考そのものが野蛮だともいえます。いいかえれば、
野蛮人とは、野蛮人がいると信じて疑わない
その野蛮な精神の中にこそ存在するということです。

なんだかディズニーランドで語られている
ミッキーマウスの話に似ているので、
これをアレンジした話で、ひとまず、
今回の講義をしめくくることにします。
▼ブッシュマン・オン・マイ・マインド_d0016471_23164989.jpg
# by mal2000 | 2005-01-30 08:21
▼民族誌の二十一世紀はヤコペッティのモンド・カーネと共に再開する


今回の講義では「モンド・カーネ」(邦題「ヤコペッティの世界残酷物語」)
という映画を観ます。1963年にイタリアで制作されたこの映画は、後に
「モンドムービー」とか、「ショック(ドキュ)メンタリーフィルム」と呼ばれる
ことになる一連の作品の先駆的作品で、「モンド映画は、この作品から
始まって、そこでいきなりピークに達して、それから後は全く進歩してない」
と云われるくらい、そのスジでは非常に評価の高い作品です。

これは「ブッシュマン」のような、完全なフィクションではありませんが、
かといって、リアリズムをとことん追求した完全なドキュメントでもない、
いま風に云えば、「やらせ」や「フェイク」も相当まじったような、かなり
ぁゃしぃところのあるドキュメント映画で、主に観客にショックとインパクト
を与えることを意図して制作された映画です。「モンド」とはイタリア語で
「世界」を意味する普通のことばですが、このヤコペッティの作品以後、
「インキチくさい音楽」「悪趣味な映画」を指す代名詞として使われる
ようになってしまったことなどからもわかるように、この映画ではこれまで
文化人類学がまじめな学問的研究対象としてきたトロブリアンド諸島や
アフリカ、ネパールをはじめ、ニューギニアのカーゴカルトなど、世界中
の様々な「奇習・蛮習」の「決定的瞬間」や「衝撃的な映像」が、まるで
ローラーコースター・ムービーのように次から次に提示されてゆくという、
そういうつくりになっています。当然、文化人類学では、この映画を
まともな民族誌映画としては扱わず、長いあいだ黙殺してきましたが、
ようやく最近になって、アメリカの最も権威ある文化人類学の学術専門誌
「American Anthropologist」に、モンド映画の専門家へのインタヴュー
を中心とした論文が掲載され、それによって、これまでまともに論じられ
ることのなかった、この作品のポストモダン的実験性の一端が明らかに
されました。実際に作品を観るとわかるように、モンド映画のつくり方は、
民族誌映画とはまるきり正反対の手法でつくられていて、その評論でも
その点を、こんな風に指摘しています。

「モンド映画というのは民族誌映画に対するアンチテーゼなのです。
それは、ものごとの全体像やその文脈、そして信憑性というものに
まるで無頓着で、ものごとをずたずたに断片化し、シーンをすっとばし、
文脈をめちゃくちゃにして、しかも、ごまかしやインチキでもって、
作品をでっちあげるのです」

これだけ読むといかにもヒドイ話ですが、これはあくまでモンド映画の
一般的特徴であって、これから見るヤコペッティの「モンド・カーネ」が、
こうしたモンド映画の中にあって、とりわけ傑作とされるのは、それが
ただ単にショッキングなシーンを羅列しているのでなく、「アイロニカル・
ジャクスタポジション」と呼ばれる、批評的な含みをもった絶妙の配置
によってそれを並べかえて見せているからで、これがヤコペッティの
この作品を、多くのニセモンド映画や民族誌映画とは一味も二味も違う
傑出した作品にしているのだ、ということのようです。

そして、さらには...いや、もうやめましょう。

文字ばかりのコラムを読むのに、もうそろそろ飽きてきた頃ではないかと
思いますので、予告編はもうこのへんできりあげることにして、さっそく、
本編を見ることにしましょう。あ、でも、その前にあともうひとつだけ。
この作品の音楽を担当してるのは、あの「食人族」の音楽を担当した
リズ・オラトーニで、「食人族」の中で最も非人道的なホロコーストの
シーンで流れていたおぞましいくらい美しく、殺人的なまでに感傷的な
旋律がこの映画の中でも存分にその異化効果を発揮しています。
それもこの映画にしかけられたアイロニカルなジャクスタポジション、
つまり、イヤミで皮肉っぽい配置のひとつですので、お聞きのがしなく。
# by mal2000 | 2005-01-27 23:37
▼文化人類学についての少しだけ体系的な知識
これがその「教材資料」です

▼文化人類学についての少しだけ体系的な知識_d0016471_10155430.jpg

#もうすこし拡大したものを見る

「プリントを配布してほしい」というリクエストもありましたので、
次の講義でこれをプリントアウトしたものを配布します(先着100人まで)。

詳しい内容については、こちらをご覧下さい。

<プリント集>
1-1: 自民族中心主義から文化相対主義への歩み~書斎からフィールドワークへ
1-2: 椅子と書物と肖像に見る文化人類学のモードの変遷~ロマン主義からリアリズムへ

2-1: "文化の発見"の大いなる意義~ボルヘスの「ブロディーの報告書」を読む
2-2: 文化相対主義による文学の実験~人類学者になりそこねた作家ヴォネガットに聞く

3-1: フィールドワークにおけるラポールの図
3-2: フィールドワークにおけるテクノロジーの図
3-3: フィールドワークにおけるセルフポートレートの図

4-1: 民族誌の文学的風景とその装置
4-2: 万国博覧会と文化人類学

以上、1~4の話をまとめてデザインするとこうなります(詳しくは5をみてください)

▼文化人類学についての少しだけ体系的な知識_d0016471_16275371.jpg

5-1: 二〇世紀のモダニズムとしての文化人類学
5-2: 抑圧されたものたちの回帰とポストモダン的転回
# by mal2000 | 2005-01-12 18:46