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はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿
▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_19372758.jpg
「YES/NO 反応しろ
賛同しろ 珍重しろ 
慎重にNO 検討しろ
選考しながら  
KEEP ONしろ」
(スチャダラパー)
先週の月曜に実施した「文化人類学解放講座」後期期末試験の結果ですが、
予想していたよりもずっと好い答案が仕上がっていました。前期とくらべると、
今回は一本「スジ」が通ったという印象を強く受けました。

▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_19411594.jpg
「問い→応答→調整→再考→判断」という議論の
フォーマットとキャラクターアイコンをうまく使って、
リズム感とユーモアのセンスが感じられる「読み手」
を意識した「読ませる答案」をこしらえてくれた人が
多かったです。また吹きだしのなかの科白が論述の
内容を一段高いメタレヴェルの視点から言いかえた
ものとしてちゃんと機能していたところもよかったです。

今回の試験では受験者の約8割の人がグローバリゼーションの問題をとりあげ、
グローバリゼーションについて自分で問てた問いに主体的にとりくんでくれました。
そこでは、グローバリゼーションの単なる説明や解説にとどまらず、グローバリ
ゼーションを、いま自分たちがリアルタイムで生きてる時代の、世界の文化の
一大変動としてうけとめ、それに対する批評的で、かつ、反省的な議論を展開
してくれていました。

▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_19503471.jpg答案をみると、最初に見た「コヤニスカッツィ」が、
グローバリゼーションを知識や言葉ではなく、
いまそこにあるリアルな事件として感覚的に把握し、
地球規模でそれを考えるための出発点としてうまく
機能し、なおかつ、グローバリゼーションを考えるための強烈なモティヴェーション(動機)となったようです。

その後に見た「緑のアリが夢見るところ」と「クラ:神秘の輪」そして「エスキモー」は、
文化の一元化として語られることの多いグローバリゼーションの裏で、ローカルな
文化の破壊や収奪が起きていることを強く印象づけたようで、グローバリゼーション
によって何が失われようとしているのかという喪失の局面からグローバリゼーション
を考えた答案が多いように思いました。

こんなふうに、文化を消滅してゆくもの、あるいは失われゆくものとしてとらえることを
一種のロマンティシズムだと批判する評論家もいますが、この批判にあまりとらわれ
すぎると、現にいま失われつつあるものを見失ってしまいかねませんし、むしろいまは
このロマンティシズムを意識的にとりもどす必要があると思いますので、この講義では
そうしたものの考えにたった答案を積極的に評価することにしました。

▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_19573429.jpg「ザ・ビッグワン」と「ミッキーマウス、ハイチへ行く」は、
グローバリゼーションを他人事ではなく、自分の
日常の生活とのかかわりで考えるきっかけになった
ようで、その後に見た「WTOのどこが悪いのか」の
議論を参考にしながら非常に熱のこもった議論や
鋭い指摘をしてくれた人もいました。

とはいっても、この試験には、そもそも「問題」がないので、当然、模範解答もなく、
また答案に対する受験者の評価もてんでばらばらなので、これが一番という答案は
ありませんし、正解・不正解すらありません。しかし「ここはよく書けている」とか
「これはうまい表現だ」と思えるものがたくさんありましたので、そういう部分を
サンプリングして、コラージュしてみました。いってみればそれは、今年度の
「文化人類学解放講座」が出した集合的見解、もしくは、コラボレーションによる
グローバリズムに対する応答のようなものです。それぞれの文には書き手がいますが、
そもそもことばというのは誰のものでもない、誰もが使えるコモンズ(共有物)なの
ですから、自分のものとしてしまっておかずに、広く解放し、かつ共有しあって、
トロブリアンドのクラのように、来年の受講者たちへのギフトとして譲り渡すことが
できればと思っています。

以下が今年度の講義から生まれたコモンズとしての答案です。
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【文化人類学解放講座後期学期末試験答案】 2005年 A3ヨコ
▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_1911309.jpg
グローバリゼーションとは、バランスのこわれた生活が、地球の残りの部分にまでひろがってゆくことだよ/そう、ディズニーはどんどん世界に進出しているのです。このことが世界にもたらしているのは何でしょう?それは、すてきな夢、そして、苦痛なんです/ハリウッド映画は一種の「思想的テロ」ではないか?ハリウッド映画の「思想的テロ」が最も威力を増すのは、我々がグローバリズムへの思考を止めたときである。我々が思考を止めれば、ハリウッド映画はまさに「思想的テロ」となって、我々を洗脳してしまうだろう/私たちはテクノロジーによってスピードを得たが、知らぬ間にいろいろなものを失ってしまった。「コヤニステカッツィ」は映像と音楽だけだが、これを見ると、失っていくものに対する恐怖を感じることができる/郊外にショッピングセンターができた。しかし今考えるとそういった所では消費者としての満足しかなく、その時の思い出というのはほとんどない。郊外のショッピングセンターが空虚なものに感じてしまう/金を払わねば、人として存在することもできなくなる世の中は本末転倒である。それのいったい何がグローバリゼーションなのだろう/グローバリゼーションに対して私が抱く危機感の本質とは、企業及び資本主義によってもたらされる、人々からの人間性・人間のはく奪である/自分の体からはなれすぎて、地球の裏側のことまでわからない、まるでRPGのような世界が今の世界だと思います/グローバリゼーションを通じて人は、本質を見抜く力を失っていることに気づくべきではないのか?/私たちのボーダーは消えたんじゃない、大きな何かに飲み込まれた、あるいは、買い取られた。そして新たに企業のなわばりというボーダーができたのだ/どの国からも「エキゾチック」がなくなるのか。いま流行の「ボヘミアン」「エスニック」など「~風」がなくなってしまうと考えると気持ち悪い/お土産というものがもっていた機能が交通機関の発達など昨今の急速なグローバリゼーションによってもはや維持できなくなってきている/貧困救済に貢献する自身の社会的評価を上げようとする私利私欲、その象徴を身につけることになっているという切り口からホワイトバンドを見てみると、なんとも諧謔に思えて仕方ない/資本主義・グローバリゼーションによって創り出された枠組から少しはみ出して「悲惨」といわれる世界側から、いま自分たちのいる世界を見てみたい/公共サービスへの民間企業の参入は高利潤を生むビジネスとして注目されており、公共サービスの自由化は、途上国ではサービスを受けられるものと受けられない人々ができてしまう/私たちは彼らに仕事を与えてあげたのではない。安く働かせられるから都合が良いと雇ったのだ/国内生産のセブンイレブンでは買い手・売り手・作り手の間に極端な貧富の差は出ない。ナイキは買い手・売り手・作り手の貧富の差が極端に出がちである。私とホリエモンぐらいの差かもしれない/ディズニーを毛嫌いするというのは答えではないし、楽しければ良い、と関係性を絶ってしまうのも違うはずだ/かつては今よりも便利ではなかったが、それでも生活していた。便利になるためにCMに踊らされて物を買い換えてゆく私達/私たちの社会は他者を想像していない社会である。私たちに想像力というものが欠けている、もしくは、欠けさせられたからである//私たちは何をしなければならないのか?最低賃金(死なないだけの額)で暮らさねばならない人々の存在とその暮らしを想像することである/我々が一番忘れてはならないもの、それは「他者の尊重」そして「相手から学ぶ」という姿勢では?/ある文化人類学者は、ある講義で次のように言った「文化人類学ではないもの(=似たもの)を見ることで文化人類学を学ぶ」と/無知ということの恐ろしさを感じればいい。自分が人権を持っているのさえ考えず、そんな人間は他人の人権も同じく考えない/私には、テクノロジーが生んだ便利さというヌルマ湯につかりすぎて、人々は"理性"を、"考える力"を失ってしまったとしか思えない。いま人々に必要なのは"理性"である。テクノロジーの影で声にならない声をあげているモノたちについて良く考えなければならない。それが出来なければ破滅の一途をたどり続けるだけであろう/押しつけが多いから、世界は怒るのだ。耳をすまして世界の声を聞くこと。簡単なことじゃないか。地球の理想は、世界中の合意の上に様々な文化が成り立っていることではないのか。グローバリゼーションはその過程なのだよ。世界中が国家の単位をこえて、同じ地球民族であることを確認し、力をあわせていかなくてはならない。そのためにまず自文化の押しつけを自覚することだ/私たちは企業に搾取されるばかりでなく、世界に呼びかけ、行動することもできるのだから。
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今回の答案用紙の欄外に二つの文章を書きこんでおきました。まずひとつはこれです。

「民族学とは未開社会という特殊な対象によって定義される専門職ではなく、いわば、
ひとつのものの考えかたであり(民族学者になりそこねて) 自分の社会に対して距離を
とるならば、私たちも自分の社会の民族学者になるのである」(メルロ=ポンティ)


もともとこの講義は、専門家としての文化人類学者/民族学者を養成するための講義
ではありません。つまりこの講義を受けても、どのみち文化人類学者/民族学者には
なれませんし、おそらく、なろうという人もいないでしょうから、それならば、と発想を
きりかえ、どうせ「なれない/ならない」のなら、「なれない/ならない」ことを逆手にとって、
受講者が文化人類学/民族学を学びそこねて、文化人類学者/民族学者に確実に
「なりそこねる」ための講義プランを立てました。そして、同じ「なりそこねる」にしても、
ただ「なりそこねる」のではなく、「なりそこねる」かわりに、別の何かに「なれる」ような
講義プランを組み立てました。「自分の社会の文化人類学者/民族学者」というのが
つまりそれです。後期の試験の答案を見る限り、受講者の多くが見事に「民族学者に
なりそこね」て「自分の社会の民族学者」になりはじめてくれてたようです。

ふりかえってみれば、この講義の一番最初の時間に、専門職の文化人類学者/民族
学者たちが書いた100冊近い本を一気に読み飛ばすということをしましたが、いわば
あれは「なりそこねの儀礼」のようなもので、ああいう本の読み方をすると、絶対に
専門家にはなれませんが、そのかわりに文化人類学/民族学が専門的な学問であり
ながら、しかし全体として見ると、人間についての「雑学」のようなものだということが
分かりますので、専門の文化人類学者/民族学者が聞いたら腹をたてるかもしれま
せんが、最初にまず文化人類学/民族学を、誰に対しても、何に対してもひらかれた
「雑種の学問」すなわち「雑学」として解放するということからはじめてみたのでした。
文化人類学/民族学は専門的に学ぶこともできますが、それは独学でやることだって
できるのです。

他方、専門の文化人類学/民族学の方では、文化人類学/民族学を「再想像」しな
ければならないという呼びかけがありますが、今のところそれをやった人はまだ
いません。創造は神の仕事ですが、想像は人間の仕事なので、いつまで待っても
「再想像」は天から降ってきたりはしませんし、そういう大胆な想像をするには
「独学」がやはりいちばんで、しかも想像するにはインスピレーションを与えてくれる
体験が必要だと思いますので、この講義ではあえて、専門的な文献を使わずに、
かわりにドキュメント・フィルムをたくさん用意し、それを想像をめぐらすための
触媒とし、独学的にものを考えてもらいました。

▼「文化人類学解放講座」最終講義録・草稿_d0016471_2015972.jpgもとより想像というのは、
思考の飛躍ですので、文化人類
学者/民族学者になりきってしまって、
同じようなものの考え方をしていては、
飛躍の幅が小さくなってしまうので、
ホンモノの文化人類学者/民族学者
ではなく「食人族」や「マニトゥ」といった
ホラー映画やオカルト映画に登場する

「文化人類学者/民族学者になりすました」俳優たちの行動や言動を通じて文化人類学
的なものの考え方とそのをおおざっぱにおさえた後に、ヤコペッティの「世界残酷物語」や
「ブュシュマン」のような、どちらかといえば、文化人類学者がまゆをひそめるような
モンド映画や文化的搾取映画をあえて見たのも、すべては文化人類学者/民族学者に
「うまくなりそこねる」ためのプログラムなのです。

ほかにも、この講義では「冗談関係」や「クラ」のドキュメント・フィルムを見ましたが、
そこではラドクリフ・ブラウンやマリノウスキーといったその研究の第一人者である
人類学者の本を読むことはしませんでしたし、紹介もしませんでした。交差イトコ婚も
ムルンギン体系の話もしませんでした。『サモアの思春期』も『菊と刀』も読まず、
ただその著者がいずれも詩人であったことだけ紹介し、かわりにボルヘスの
「ブロディーの報告書」やカート・ヴォネガットの自叙伝を読み、前期はもっぱら
進化論と文化相対主義、そしてモダニズムと文明批判の話に終始し、文化人類学の、
そもそものはじめにあった「文明批判」という、今ではすっかり時代遅れになった見方を、
もういちどとりあげなおし、それをグローバリズム批判のためにリサイクルするための
下準備をしたわけです。

なので本当に申しわけないのですが、もしみなさんが他の大学の文化人類学の
講義の試験を受けたら、単位を落とすことはほぼ確実だと思いますので、その点は
くれぐれも注意してください。ただ、講義のはじめの頃に紹介したように、大学や
大学院で文化人類学/民族学を学んだ後、文化人類学者/民族学者になりそこねて、
あるいは、ならずに、別の何かになった人たちがいます。たとえば映画作家でいえば、
ジャン=リュック・ゴダール、テオ・アンゲロプロス、サム・ライミがそうですし、芸術家
でいえば、岡本太郎やジョセフ・コスースがそうです。小説家だとカート・ヴォネガット、
ウィリアム・バロウズ、ミシェル・レリス、ゾラ・ニール・ハーストン、アミタフ・ゴーシュ
など大勢います。つまりもうお分かりとは思いますが、「文化人類学解放講座」の
ねらいは、受講者がこの講義をきっかけにして文化人類学者/民族学者になること
ではなく、この講義のせいで文化人類学者/民族学者になりそこね、そのかわりに
映像作家や芸術家、小説家たちのように、想像力をはたらかせて、ものを考えたり
ものをつくるようになる、そのきっかけとなることを目的としたもので、そうした
「なりそこね」の人たちを通じて文化人類学/民族学を、そのはじまりがそうであったように、
「雑学」として社会にもういっぺん解放し、大学の「外の知」や専門に飼い馴らされない
「野生の想像力」がやがて文化人類学を「再想像」してくれることを期待してプログラム
したものなのです。

そして、最後にもうひとつ欲張って云えば、想像力をはたらかせてものを考えるだけ
ではなく、下に引用したサイードのことばにあるような、この講義をきっかけとして、
社会のなかでものごとを考え、積極的に社会参加するく「現代のアマチュア知識人」
になってもらえたらとも思っています。「文化人類学解放講座」はそのための実験の
講座として創作したもので、この実験は来年も続けますので、単位や成績に関係なく、
これもまた「ひとつの社会参加」だと考えて、多くのひとが受講してくれることを願って
やみません。

「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、
社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。... わたしは、自分の
専門よりも広い領域の問題についてしゃべったり書いたりしているが、
それはわたしが、自分の狭い専門活動のなかではなしえない社会参加を、
純然たるアマチュアとしての立場でおこなおうとしているからである」
(エドワード・サイード)


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[追記] 今年最後の講義では試験の答案の講評を行います。なお希望する
人には答案を返却しますので講義の最後に申し出てください。答案の講評
の後、時間の都合で見ることができなかったドキュメントフィルムやビデ
オクリップを時間の許す限り上映する予定です。来年の講義のについては、
次のコラムをみてください。なお来年度の講義では外からゲスト講師を招
いて、実演をまじえた講義を行いたいと考えています。また、日本語字幕
のない海外のビデオクリップにはなるべく字幕をつけるようにするなどの
教材の充実をはかるつもりです。また要望があれば他大学での開講や自主
ゼミの実施なども考えていますので、具体的提案を待ってます。
by mal2000 | 2003-09-11 18:59
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