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はじめに
![]() 指導教授は にこやかな顔で 言いました。 自然科学のような ふりをしてる詩を 学んでみてはどうかね? そんなことが できるんですか!? 指導教授は 私の手を握って 言いました。 社会人類学もしくは 文化人類学の世界に きみを歓迎するよ。 カート・ヴォネガット 人類学者というのは、 作家、小説家、詩人に なりそこねた人たち なのです。 J・クリフォード その他のジャンル
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![]() 「文化人類学がどんな学問なのかを知りたければ、 文化人類学を研究している 人びとになりすましている人たちを まず見るべきである」 (「文化人類学解放講座」) 「なりそこねた人たち」がいる一方には、「なりすました人たち」もいるもので、右の写真は、アフリカのイグボ族の仮面の祭に登場する「文化人類学者」(になりすました人)です。この祭りでは、「文化人類学者」は、いつもノートとペンを決してはなさず、あらゆることをすべて書きとろうと身がまえている「変わり者」のキャラクターとして演出され、登場します。こんなふうに文化人類学者に「なりすました人たち」は、映画のなかに数多くみることができます。 今回は「文化人類学者」(になりすました人たち)が登場する劇作映画を観ます。ジャンルは、ホラー、オカルト、フェイク・ドキュメント、コメディと、さまざまですが、それぞれの映画のなかで「配役=キャスト」として「演じられた文化人類学者」たちの発言や行動、ものの考え方や職業上の立場に注意しながら観てみましょう。 ![]() [教材] 「たたり」1963年 アメリカ [ホラー] 「マニトゥ」 1978年 アメリカ [オカルト] 「人喰族」 1981年 イタリア [秘境もの] 「食人族」 1979年 イタリア [秘境もの] 「Dr.ジャガバンドー」1998年 [コメディ] これらの映画に登場する人類学者たちのキャラクターは、いずれも「フィクション」であり、脚本家が書いたシナリオにしたがって演技されたものですが、「文化人類学者になりすました」プロの役者たちによって演じられた、そのふるまいからは、ホンモノの文化人類学があまり語らない、あるいは、語るまでもないと考えている、文化人類学の最もベーシックでコアな部分が見えてきます。 ![]() ▼「文化人類学者になりすました人びと」 (jpg/141KB) (「たたり」、「マニトゥ」、「人喰族」、「食人族」、「Dr.ジャガバンドー」、「緑のアリの夢見るところ」、「デモンズ2000」、「カバルリ」など) これらはすべて脚色され演出された「ニセモノの文化人類学者」で、文字どおり「文化人類学者になりすました人たち」でしかないのですが、そうしたニセモノには「ホンモノの文化人類学者たち」以上に、また「文化人類学者になりそこねた人たち」以上に、文化人類学の原点や原像がきわめてはっきりと目に見えるかたちで示されています。「文明」「西欧中心主義」「自文化中心主義」「人種差別」といった言葉とともに、それに対する批判的な立場が、ややショッキングで、かつドラマチックなかたちで示されていたと思います。これについては今後の講義でくり返しとりあげてゆく予定ですので、それはひとまずさておき、今回は「文化人類学」という学問を、抽象的なことばで定義するのではなく、具体的な目に見える事例を通して考えてみる、ということをしましたが、これは文化人類学の基本的な方法でもあります。また、文化人類学という学問を、文化人類学者たちの姿かたちからだけでなく、文化人類学者になりそこねた人たちやなりすました人たちの姿から考えてみるということをしましたが、実はこんなふうに、一見すると「いかがわしい」ものや「例外的なもの」あるいは「副次的なもの」や「周縁的なもの」を積極的にとりあげ、そこから、ものごとの見えない側面や、当たり前すぎてもはや話題にもされないような前提にもう一度照明をあて、それについて考えなおしてみるという、このやり方もまた文化人類学の手法なのです。 ▼「たたり」 「私の家はイギリスの名門で、ビクトリア時代の思想でこり固まっており、実利一点ばりだった。その反動で私は非実利的になった。オックスフォードで法律を専攻せず、父とケンカになり、アメリカへ来て勉強することにしたが、人類学を選んだ理由は、霊魂や死後の世界を研究したいからだ。だが、その後、気づいた。人類学と心霊現象を統合できれば役に立つと。心霊は純粋に精神的なものだ。これを解明できれば、おそらく人間の精神を高めるのに利用できる」 (ジョン・マークウェイ「たたり」より) ▼「マニトゥ」 【警告】「ただいまから上映する作品は、これまでに制作された映画の中でも特に暴力的のものです。野蛮な拷問や 残酷な虐待のシーンが数多く登場します。そのような忌まわしい嫌悪すべきものを見ると気が動転してしまう という方は、どうかこの映画をご覧にならないで下さい。」映画「Cannibal Ferox」(1981年)より ▼「人喰族」 ▼「食人族」 俗に「緑の地獄」映画と呼ばれる、南米のアマゾンを舞台にしたイタリアのカニバリズム映画を2本続けて見ましたが、いかがでしたでしょうか。まともな文化人類学者が見たら、眉をひそめるような映画ですが、監督のウンベルト・レンツィが語るように、これらの「映画にはあるメッセージが隠されて」いて、そのメッセージを伝えるのにふさわしい役として、文化人類学者が選ばれ、そのメッセージをこんな風に表現しています。文化人類学者(役) グロリア・ディヴィスの見解 「白人優秀主義がいけないのよ」 キー・シークエンスを見る 文化人類学者(役) ハロルド・モンローの見解 「本当に野蛮人なのは?」 キー・シークエンスを見る ここで文化人類学者役の2人の俳優がそれぞれ表明しているのは、「自文化中心主義(エスノセントリズム)批判」と「西欧文明批判」、「植民地主義批判」、そして、「文化相対主義」というものの考え方で、この2本の映画は、文化人類学のコアともいえる、こうした考え方を、カニバリズム映画という、人の感情に強く訴えかけるショッキングなメディアを使って、レッスンしてくれているといえなくもありません。 文化人類学者のレナート・ロサルドは、「文化についての記述は、ただ濃密なだけでなく、インパクトを与えるやりかたを探るべきだ」といってますが、こうしたカニバリズム映画はその裏ワザのひとつといえるかもしれません。「自文化中心主義批判」「西欧文明批判」「植民地主義批判」、「文化相対主義」と、ただ用語をならべるよりもずっと効果的で、それらについて、もっと知るきっかけになるのではないでしょうか。とはいえ、この映画に登場する「ヤノマモ(ミ)族」は、ブラジルに実在する人びとで、この映画でのその「文化の記述」は、決して正しいものではないので、なるべく近いうちに、この講義で、ヤノマモ族の日常生活を記録したドキュメント映画を見るつもりです。 ▼「Dr.ジャガバンドー」 文化人類学者のレナート・ロサルドは『文化と真実』という本のなかで、こんなことを書いています。「民族誌が文化の研究にとって役に立つ視点であることがようやく認められた、そのちょうど同じ頃、民族誌のホームグラウンドである文化人類学はあるピンチに陥っていた。古典的な民族誌の読者たちが次第に「裸の王様シンドローム」に感染してきたのである。かつては、文化の研究の王様にふさわしい堂々とした衣装を身にまとっていたはずの文化人類学がいまや、まぬけな裸の王様のように見えてきてしまったのである。 かつては「これこそ本当の真実」のように読めた言葉が、いまではパロディのように、あるいは、多くの見解のうちのひとつにしかすぎないように思えてきたのである。そのせいで、かつてはあれほど尊敬されていた民族誌の書き方の退屈さが驚くほどあからさまになってしまった。」レナート・ロサルド『文化と真実』 そうなると、文化人類学者が書く退屈な民族誌よりもむしろ、「裸の王様」のキャラクターがそうであるように、文化人類学者というキャクラターの方がかえって面白い対象になってきます。 「クリッペンドルフ族」という文化人類学者を主人公にしたコメディ小説とその映画は、文化人類学をめぐるこの大きな「変化」を物語るものです。かつて、スーザン・ソンタグは、「英雄としての人類学者」というエッセイを書きましたが、これから先、そのようなエッセイが書かれることは、まずないでしょう。特にこの映画を見てしまった後では... 「Dr.ジャガバンドー」(1998年 98分 アメリカ映画 日本劇場未公開 原題=Krippendorf's Tribe) [あらすじ] 妻を亡くし、三人の子供の世話に追われている人類学者のクリッペンドーフ教授(ドレイファス)。この二年間ニューギニアで調査を続けたが成果はゼロ。大学で講演をしなければならなくなって、つい口からでまかせに未知の部族を発見したと言ってしまう。彼を尊敬する新任のミッチェリ教授(エルフマン)は大張り切りで、この驚くべき発見をマスコミに売り込んだ。さあ困った、どうしよう。やけっぱちの教授は息子たちに仮装させ、幻のシェルミッケドム族の記録映画をでっち上げたところ、これが大受け。ライバルのアレン博士(トムリン)は証拠を求めてニューギニアに飛んだ。いかさまがばれるのは時間の問題だ。 [参考資料]フランク・パーキン 「クリッペンドルフ族」1986年 *映画の原作 ロバート・ラザルスキー 「クリッペンドルフを脱構築する:映画による人類学の教育」 (Deconstructing Krippendorf: Anthropological Pedagogy with a Feature Film) *アメリカ人類学会(1998年)での講演 ▼「映画館の人類学者」 このように、ものごとには、戯画化されることによってはじめて見えてくるものもあり、たしかにそれは決して、客観的でもなければ、また、全般的事実ではないにしても、それは、ある角度や視点から見た相対的で「断片的な真実」を伝えてくれるものです。 ▼「人類学者来襲!!」「IQテスト」 「マッドメン」ほか
by mal2000
| 2005-03-09 01:16
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