はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼民族誌の二十一世紀はヤコペッティのモンド・カーネと共に再開する


今回の講義では「モンド・カーネ」(邦題「ヤコペッティの世界残酷物語」)
という映画を観ます。1963年にイタリアで制作されたこの映画は、後に
「モンドムービー」とか、「ショック(ドキュ)メンタリーフィルム」と呼ばれる
ことになる一連の作品の先駆的作品で、「モンド映画は、この作品から
始まって、そこでいきなりピークに達して、それから後は全く進歩してない」
と云われるくらい、そのスジでは非常に評価の高い作品です。

これは「ブッシュマン」のような、完全なフィクションではありませんが、
かといって、リアリズムをとことん追求した完全なドキュメントでもない、
いま風に云えば、「やらせ」や「フェイク」も相当まじったような、かなり
ぁゃしぃところのあるドキュメント映画で、主に観客にショックとインパクト
を与えることを意図して制作された映画です。「モンド」とはイタリア語で
「世界」を意味する普通のことばですが、このヤコペッティの作品以後、
「インキチくさい音楽」「悪趣味な映画」を指す代名詞として使われる
ようになってしまったことなどからもわかるように、この映画ではこれまで
文化人類学がまじめな学問的研究対象としてきたトロブリアンド諸島や
アフリカ、ネパールをはじめ、ニューギニアのカーゴカルトなど、世界中
の様々な「奇習・蛮習」の「決定的瞬間」や「衝撃的な映像」が、まるで
ローラーコースター・ムービーのように次から次に提示されてゆくという、
そういうつくりになっています。当然、文化人類学では、この映画を
まともな民族誌映画としては扱わず、長いあいだ黙殺してきましたが、
ようやく最近になって、アメリカの最も権威ある文化人類学の学術専門誌
「American Anthropologist」に、モンド映画の専門家へのインタヴュー
を中心とした論文が掲載され、それによって、これまでまともに論じられ
ることのなかった、この作品のポストモダン的実験性の一端が明らかに
されました。実際に作品を観るとわかるように、モンド映画のつくり方は、
民族誌映画とはまるきり正反対の手法でつくられていて、その評論でも
その点を、こんな風に指摘しています。

「モンド映画というのは民族誌映画に対するアンチテーゼなのです。
それは、ものごとの全体像やその文脈、そして信憑性というものに
まるで無頓着で、ものごとをずたずたに断片化し、シーンをすっとばし、
文脈をめちゃくちゃにして、しかも、ごまかしやインチキでもって、
作品をでっちあげるのです」

これだけ読むといかにもヒドイ話ですが、これはあくまでモンド映画の
一般的特徴であって、これから見るヤコペッティの「モンド・カーネ」が、
こうしたモンド映画の中にあって、とりわけ傑作とされるのは、それが
ただ単にショッキングなシーンを羅列しているのでなく、「アイロニカル・
ジャクスタポジション」と呼ばれる、批評的な含みをもった絶妙の配置
によってそれを並べかえて見せているからで、これがヤコペッティの
この作品を、多くのニセモンド映画や民族誌映画とは一味も二味も違う
傑出した作品にしているのだ、ということのようです。

そして、さらには...いや、もうやめましょう。

文字ばかりのコラムを読むのに、もうそろそろ飽きてきた頃ではないかと
思いますので、予告編はもうこのへんできりあげることにして、さっそく、
本編を見ることにしましょう。あ、でも、その前にあともうひとつだけ。
この作品の音楽を担当してるのは、あの「食人族」の音楽を担当した
リズ・オラトーニで、「食人族」の中で最も非人道的なホロコーストの
シーンで流れていたおぞましいくらい美しく、殺人的なまでに感傷的な
旋律がこの映画の中でも存分にその異化効果を発揮しています。
それもこの映画にしかけられたアイロニカルなジャクスタポジション、
つまり、イヤミで皮肉っぽい配置のひとつですので、お聞きのがしなく。
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by mal2000 | 2005-01-27 23:37
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