はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼常識と真実と道徳の破壊的相対主義者ヤコペッティ

▼「世界残酷物語」オリジナル予告編

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 「はい、みなさん、ご覧になられましたか。これを見たあと一週間はこれが、あなたの話題になってしまうにちがいありませんね。なにが残酷であるかが、いろいろとわかる皮肉。見た目のこわさ。心にチクリと突き刺す皮肉のこわさ。よくも集めたものですね。一本のドラマを見る以上の劇的なスリルでいっぱいですね。ハイ、もう時間になりました。それでは、またお逢いしましょうね。さよなら、さよなら、さようなら」
(淀川長治)

*東宝東和配給「世界残酷物語」1963(昭和38)年版パンフレットに掲載の淀川長治の寸評より抜粋してテレビ番組風に再構成。



「文化の記録で、同時に野蛮の記録でないようなものは、
決して存在しない」(ヴァルター・ベンヤミン)
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 この映画の監督で、脚本も書いたヤコペッティ自身は、製作から30年後の2002年に、ある映画雑誌のインタヴューに応えて、こんな風に云っています。

d0016471_0371350.jpg「私の映画のナレーションは、まさに私自身だといってよい。さいわい私にはユーモアのセンスというものがあって、それがあるからこそ、ふつうなら到底耐えられないようなシーン、最悪だといわれるような場面でも受け入れることができるのだと思う。世の中のことは、それがいかに最悪な出来事であれ、最悪なりの理由があり、それは受け入れなくてはならない。そもそも、我々の主観的な判断が、いつも正しいとは限らず、なにが最悪で、なにが最善だと、決めてかかるのは、真実の勝手な歪曲だといえる。私のナレーションはよくシニカルだといわれるが、私にいわせれば、あれは皮肉ではなく、アンチ・レトリックだ。決まり文句、紋切り型の文章は大嫌いだ。常識もまた然り。人からつっこまれるのを恐れて、とりあえず世間的に正しいとされていることを言っておくことに、いったい何の意味があるのか?」(グアンティエロ・ヤコペッティ)


 ここでヤコペッティが主張しているのはラジカルな相対主義です。つまり、自分たち西欧人が考える善悪や真偽、優劣や美醜の判断が、いつも正しいとは限らず、自分たちには「最低で、最悪だ」と思えるような行為や習慣(例:犬をたべること、女性を肥満体にすること、来るはずのない飛行機を待ち続けること、瀕死の人間を前にして宴会をひらくことなど)にも、自分たちの知らない文化的な理由や意味、またそれにこめられた情感があるのだから、それを自分が属する文化や社会の常識だけで独断的に決めつけてしまうのは、真実の「勝手な歪曲」になるというわけです。

 つまり、自分たちの常識や価値観は決してユニバーサルに通用するものではなく、社会や文化によって、それが「正しい」ものとして通用しないこともあるのです。つまりこれが、自分たちの常識や価値観はそれが置かれた時代や場所、またその相手や状況に左右されるという、相対主義的なものの考え方です。

 とはいえ、「エスノセントリズム(自民族中心主義)」的なものの見方や常識を相対化するのは決して簡単なことではありません。ヤコペッティは私たちのエスノセントリズムにゆさぶりをかけるために、わざと「カルチャーショック」を与えるようなショッキングな映像を選び、そのショックと驚きを使って、映画を見る人たちの固定観念や文化的偏見に気づかせようとします。(そのため、ヤコペッティの映画はしばしば「ショックメンタリー映画」と呼ばれます)。その「悪趣味」とも思えるセンスやテイストには、それなりの理由があるのです。そして、ヤコペッティが云うように、そこにはアイロニカルな独特のユーモアがあり、また同時にペーソスもあります。だからヤコペッティの映画をみると、「泣けばいのか、笑えばいいのかわからない」気持ちになり、それが私たちに「人間とはなんだろう」と考えさせるのです。

 文化人類学の権威ある雑誌に掲載されたある評論で、ヤコペッティの映画は、このように評論されています。

 「プレスの反応はしばしば敵対的なものでしたが、ヤコペッティたちの映画は、その観客たちに彼らが持ってる偏見や道徳観を問いなおさせることに見事に成功したのです。
 その最大の特徴は「ジャクスタポジション(配置・配列)」にあって、その「カルチャー・ショック療法」は、私たちがもっている「未開とモダン、聖なるものと俗なるもの、人間と動物、男と女、宗教と科学、空想と現実」などのあいだに横たわっている垣根についての考え方や知識をすっかりぶち壊してくれました。
 「未開」の儀式」と「文明」の儀式などという区別は間違いであって、私たちは自分たちが暮らしている社会や、ビジネスマンたちのツアー旅行、モダンな芸術家、ダイエット教室などにこそ、本当に未開なるものがあるのだと、真剣にそう思いはじめるようになりはじめたのです。
 モンド映画は、それを見る側の身にもふりかかってきて、誰ひとり安全な場所にいることなどできないのです。それは単なる「旅行の語り(トラベローグ)」ではなく、モンド映画は、あなたが異文化を観察するのと同じように、あなた自身の文化についても語らずにはおかないのです。」(チャールズ・キルゴア)

 「モンド映画というのは「民族誌映画」に対するアンチテーゼですね。それは、ものごとの全体観や、その文脈、そして、信憑性というものに無頓着で、ものごとをズタズタに断片化し、シーンをすっとばし、文脈をメチャクチャにして、さらには、ごまかしやインチキで作品をでっちあげるものです」(A・ステープルス)

 「つまり雑種の映画(hybrid film)ですね」(チャールズ・キルゴア)

▼「モンド博士との会見記」 『アメリカン・アンソロポロジスト』誌より
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▼「イースター、フォアグラ、神戸牛」(「世界残酷物語」より)

 ヤコペッティの映画が高く評価されたのは、彼の独特のユーモアから生まれる、アイロニカルな映像のならべ方やつなぎ方にあったようです。ヤコペッティは、彼の「ちょっとばかり病的なユーモアのセンス」で、DJさながらに、世界中からコレクションしたフィルムを巧みにつないでゆきます。その皮肉っぽいフィルムの並べ方は「アイロニカル・ジャクスタポジション(配列・配置)」とでも呼べるものです。例えば、愛犬の墓参りをするアメリカの人びとの映像のすぐ後に、犬の肉を食べさせる台湾の食堂の映像にうつり、そこからフランスのフォグラづくりの工房にジャンプした後、今度は牛にビールを飲ませる日本の農家の映像に飛び移るというのがそれです。そこではもはや、未開と文明という垣根は消え、どの国も、どの社会も、それぞれ野蛮なことをしているので、誰も他人にむかって野蛮だとはいえなくなってしまう、「人類みな野蛮」「野蛮なのはおたがいさま」という、そういう展開になるように周到に編集されています。

d0016471_1450176.jpg かつてヴァルター・ベンヤミンは、「文化の記録で、同時に野蛮の記録でないようなものは、決して存在しない」と書きましたが、まさにそのとおりだという気になります。また、映画「食人族」のラストシーンでの、人類学者ハロルド・モンローのことばを思い出させます。

 この映画について、モンド映画の専門家たちはこんな風に評論しています。

 「モンド映画はそれを見る側の身にもふりかかってきて、誰も安全な場所にいることなどできないのです。それは単なる旅行の物語(トラベローグ)ではなく、モンド映画はあなたが異文化を観察するのと同じように、あなた自身の文化についても語らずにはおかないのです」


▼「東京温泉」(「世界残酷物語」より)

 モンド映画には、「高貴な未開人」というロマン主義はありません。さらにそれは何かをリアルに描写するのでもなく、人の思考を刺激する映画だという点でモダンな映画だといえます。またそこにみられるグローバルな視点やハイブリッドな構成をみると、モンド映画はポストモダンな民族誌映画といえるかもしれませんし、

 ところで、このヤコペッティの文化相対主義的な手法は、その後、民族誌映画ではなく、イタリアのグラフィック雑誌の編集にうけつがれました。次の講義では、ティボール・カルマンとオリビィエロ・トスカーニのコラボレーションによる「COLORS」を紹介したいと思います。
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by mal2000 | 2005-03-08 18:57
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