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はじめに


指導教授は
にこやかな顔で
言いました。
自然科学のような
ふりをしてる詩を
学んでみてはどうかね?
そんなことが
できるんですか!?
指導教授は
私の手を握って
言いました。
社会人類学もしくは
文化人類学の世界に
きみを歓迎するよ。
カート・ヴォネガット

人類学者というのは、
作家、小説家、詩人に
なりそこねた人たち
なのです。
J・クリフォード
その他のジャンル
▼人類学者になりそこねた作家たちの生き方と作品をみる(前編)
▼人類学者になりそこねた作家たちの生き方と作品をみる(前編)_d0016471_151256.gifYouTubeにある下記のムービーを参考に、人類学者になりそこねた作家たちに共通するものの見方や考え方、また、生き方や信念があるとすれば、それは何か考えてみましょう。


▼カート・ヴォネガット「カート・ヴォネガット」

「第二次世界大戦ののち、わたしはしばらくシカゴ大学に通った。人類学科の学生であった。当時そこでは、人間個々人のあいだに(優劣の)差異というものは存在しないと教えていた。いまでもそう教えているかもしれない。もうひとつ人類学科で学んだのは、この世に、奇矯とか、性悪とか、低劣といわれる人間はひとりもいないということである。わたしの父が亡くなる少し前に私にこういった。「お前は小説のなかで一度も悪人を書いたことがなかったな」それも戦後、大学教わったことのひとつだ」(カート・ヴォネガット)


▼「そういうものだ/カート・ヴォネガット1922-2007」

[教材] 「文化人類学者になりそこねた作家、カートヴォネガット、人類学を語る」
▼人類学者になりそこねた作家たちの生き方と作品をみる(前編)_d0016471_2394168.jpg
(*画像をクリックすると拡大します)



▼アーシュラ・クローバー・ルグイン「ラヴィニア」

「いったいなぜなのだろう。人間の社会は不可避的にピラミッド構造を呈し、権力は頂点に集中するのだろうか?権力の階層性は、人間の社会が実現せずにいられない、生物学的規範なのだろうか?こうした問いはほとんど確実に表現が不適切で、それゆえ解答不可能なのだが、相変わらず持ち出されては、答えられつづけており、この問いかけをする人間の出す答えはたいていの場合、イエスなのである。このように想定された普遍性に対し、人類学はいくつかの例外を提供する。民族学者たちは固定的な命令系統をもたないさまざまな社会を記述してきた。こうした社会において、権力は、不平等にもとづく厳格な体制のなかに封じこめられている代わりに、流動的に、それぞれ違った状況下では、異なった仕方で共有され、常にコンセンサスへと向かう抑制と均衡の原則によって機能する。人類学者たちはジェンダーに優劣をつけない社会を記述してきた。ここであげた社会はみな、わたしたちが「原始的な」と形容する社会であるが、ここでわたしたちはすでに価値の階層化を行っている。原始的=低い=弱い、文明化された=高い=強いというように。もし人間が不公平と不平等を、口で言っているほど、頭で考えているほど憎んでいるとしたら、偉大な帝国の数々、大文明の数々のうちひとつとして15分以上存続し得ただろうか?もしわたしたちアメリカ人が不公平と不平等を、口で言っているほど熱烈に憎んでいるとしたら、この国の人間がひとりでも食べものに困ることがありうるだろうか?わたしたちの努力によっては、不完全な公平さしか、限られた自由しか獲得できないのだ。しかし公平さがまったくないよりはましである。あの原則、つまり解放奴隷だった詩人の語った自由への愛にしがみつき、手放さないようにしよう」。(アーシュラ・クローバー・ルグイン)

[教材] 「文化人類学者を父に持つ作家、アーシュラ・クローバー・ル・グイン、人類学を語る」
▼人類学者になりそこねた作家たちの生き方と作品をみる(前編)_d0016471_241351.jpg
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▼岡本太郎「岡本太郎は爆発する」

「私は民族学科に移った。この学問はまったく実証的に、研究者の主観や思惑、感情を排除して、対象そのものをとらえ、帰納的に結論を得ようとする。およそ芸術活動とは正反対なこのあり方に私は逆に情熱を燃やし、打ち込んでいった。自分の運命自体に挑むようなつもりで。マルセル・モース教授の弟子になって一時は絵を描くことをやめてしまった。マルセル・モースの講義はとりわけ幅がひろく、深い手ごたえがあった。教授はフランス民族学の大きな柱であり、父のような存在だ。フィールドに出たことがない民族学者として有名だが、その目配りは人間社会のあらゆる事象にゆきわたり、言いようもなく鋭い。この人の偉大なイメージを何とかあらためて生き返らせたいと、パリ大学の民族学教授で、映像記録の専門家であるジャン・ルーシュが企画をたてた。ミシェル・レリス、構造主義で有名なレヴィ=ストロース、それに私の三人を映すという。この映画はまず、こんな質問からはじまる。「なぜ芸術家であるあなたが、マルセルモースの弟子になったのですか?」「芸術は全人間的に生きることです。私はただ絵だけを描く職人になりたくない。だから民族学をやったんです。私は社会分化に対して反対なんだ」。事実、私はそれを貫き通している。絵描きは絵を描いてりゃいい、学者はせまい自分の専門分野だけ。商売人は金さえもうけりゃいいというこの時代。そんなコマ切れに分化された存在でなく、宇宙的な全体として生きなければ、生きがいがない。それはこの社会の現状では至難だ。悲劇でしかあり得ない。しかし、私は決意していた」(岡本太郎)

[教材] 岡本太郎「芸術と人生」


▼ジャン=リュック・ゴダール&フランソワ・トリュフォー「アンリ・ラングロワを擁護する」

「今まさに我々は、未開社会のなかで生きている。コカコーラやGMといったトーテム、呪術的な言葉、儀式、タブーといったものにかこまれて生きている。形態はなにひとつ変わってはいないのだ 」(ジャン=リュック・ゴダール)

[教材] J-L・ゴダール「カメラアイ」「こことよそ」「ウィークエンド」「リア王」ほか
     イルコモンズ編「切り裂きジャンとつなぎ屋リュック」


▼ジャン-リュック・ゴダール「たたえよ、サラエヴォ」


▼ウィリアム・S・バロウズ「感謝祭 一九八六年十一月二十八日」

「あらゆる時代のもの書きたちをまとめて折りたたみ、ラジオ放送や、映画のボイストラック、テレビ、ジュークボックスの曲を録音し、世界のあらゆることばをセメントミキサーでかき混ぜて、レジスタンスのメッセージを注ぎこもう。万国のパルチザンに告ぐ、言語線を切れ、ことばをずらせ、ドアを解放せよ、震える「旅行者」たち、写真がおちる、灰になった室内を突破せよ。写真がおちる、ことばがおちる、万国のパルチザン利用、目標オルガズム放射線装備、スウェーデン、イエーテボリ、座標は8・2・7・6、スタジオを撮れ、台本を撮れ、死んだ子供を撮れ、全ミサイル発射。被害を見きわめるのは簡単だった。台本は破壊され、敵の兵隊は壊滅状態。完全レジスタンスのメッセージが世界中の短波放送で流れる。万国のパルチザンに告ぐ、言語線を切れ、ことばをずらせ、ドアを解放せよ、震える「旅行者」、写真がおちる、灰になった室内を突破せよ」(ウィリアム・バロウズ)


▼ハリー・スミス


▼ゾラ・ニール・ハーストン「ジャンプ・アット・ザ・サン」


▼キャサリン・ダンハム


▼グレゴリー・ベイトソン


▼レイジ・アゲインスト・ザ・マシン

これらの作家たちは、みなそれぞれに非常に個性の強い作家たちなので、まず彼ら以外の、SF作家や詩人、芸術家、映画監督、音楽家たちと彼らを「比較」してみると(「比較」と「収集」は文化人類学の基本的手法です)、その特徴がよくみえてきます。そのうえで、彼/女らに共通するものを考えてみてください。ヒントは、近代、文明、社会、西欧、常識、良識、価値観、前衛、実験、政治、収集、引用、記録、編集、批評、多才、などです。

この「文化人類学者になりそこねた作家たち」のものの考え方や作品には文化人類学者(になった人たち)が、専門的で個別的な研究に没頭するあまり、しばしば忘れてしまいがちな文化人類学の原点や原像のようなものをみることができます。もっともそこではそれが、いくぶんラディカルで、アヴァンギャルドで、クリティカルなかたちで現れていますが、このラディカル(根本的・過激)であること、アヴァンギャルド(前衛的・実験的)であること、そして、クリティカル(批判的・批評的)であることもまた文化人類学という学問の隠れた面なのです。
by MAL2000 | 2005-04-14 12:07
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