はじめに
指導教授は にこやかな顔で 言いました。 自然科学のような ふりをしてる詩を 学んでみてはどうかね? そんなことが できるんですか!? 指導教授は 私の手を握って 言いました。 社会人類学もしくは 文化人類学の世界に きみを歓迎するよ。 カート・ヴォネガット 人類学者というのは、 作家、小説家、詩人に なりそこねた人たち なのです。 J・クリフォード その他のジャンル
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二回のつもりだった「異文化誤解の映画史」を、四回もやったせいで、 本題の「文化人類学」がどんな学問だったか忘れてしまった人がいる かもしれませんので、明日の「文化人類学解放講座」では、復習として、 「文化人類学者になりそこねた人たち」のところへ、もう一度もどって、 文化人類学が「科学のようなふりをした詩のような学問」だったころに、 文化人類学を学んで「文化人類学者になりそこねた芸術家や作家」の 作品を通じて、文化人類学の見失われた原点やその特異な手法に ついて考えてみたいと思います。とりあげるのは、ジョセフ・コスース、 ウィリアム・バロウズ、カート・ヴォネガット、岡本太郎、J・L・ゴダールです。 まず前半では、あまり映像を使わず、テキストを中心にとりあげます。 とりあげるテキストは次のとおりです。コスース「人類学者としての芸術家」 バロウズ「ア・プーク・イズ・ヒア」「ソフトマシーン」「バロウズ・ファイル」 ヴォネガット「パームサンデー」「ヴォネガット大いに語る」「チャンピオン たちの朝食」岡本太郎「日本再発見」「原色の呪文」「私の現代芸術」です。 後半は、ゴダールの次の短編作品のなかから、いくつか選んでみます。 「カメラ・アイ」「こことよそ」「我々は発言する」「ウィークエンド」「選ばれた瞬間」 「時間の闇の中で」「二十一世紀の起源」。また、バロウズの「カット・アップ」 「タワーズ・オープン・ファイヤー」「ミリオンズ・オブ・イメージ」なども参照します。 キーワードとなるのは、 前衛、実験、断片、 詩、収集、記録、SF、 引用、切断、他者、 相対主義、文明批判、 人道主義、政治性、 もうひとつの世界、 などです。 【参考】 神話の世界が、つくられるそばから、 そのつど、バラバラにされてきたように、 新しい世界は、断片からつくりあげられるように 思うのです。(フランツ・ボアズ) 他者についての本は、 詩のことばで書かれる。 (ジャック・デリダ) #
by mal2000
| 2005-03-01 01:05
「CNN TODAY 文化人類学篇」にみる
異/文化のナレーター(語り手)の交代 ▼CNN TODAY Cultural Anthropology 正面をむいて話すレポーターと 斜めをむいて話す被写体としての 人類学者の姿に注意 #
by mal2000
| 2005-02-25 00:50
では、なぜ、文化人類学は、突然、
文化研究のなかの「裸の王様」に なってしまったのでしょうか? その答えのひとつをヴォネガット風に イラストで示してみると、 こうなります。 あなたがこれまで 一度も見たことの ないものをどうぞ ご覧ください つまり、ここ100年間のあいだの、映画、郵便、出版、テレビ、交通 などのメディアの発達によって、文化人類学がひとりじめしてきた、 異文化についての、この First Prize の魔法がとけたからだ、 というのが、たぶん、そのひとつのこたえです。 #
by mal2000
| 2005-02-20 19:45
これより以下、 「文化人類学」を ハイブリッドな 雑種の学問として 脱/再構築する この講義の土台にある 基本的な設計思想はこうです。 「これより以下のことはすべて "それはこうである"ではなく、 "それはこうなら、よくわかる"である」 レオ・フロベニウス 『パイデウマ』序章より #この講義では、正確な定義や意味ではなく、 ものの見方と了解の提供を、優先します。 「だからね、アンナ、つまり、 こういっていいと思うんだ」 (*編み物をしながら聴講していた妻に語りかけた言葉) エドワード・タイラー 『ある講演』より #この講義では、WEBを通じて、学外の方たちの 独学に役立つ情報とフレンドリーな理解を提供します。 いまや「裸の王様」になって、くたびれはじめた「文化人類学」を、その周縁と 終焉の方から建てなおしてゆく工法もまたハイブリッドで、アッサンブラージュ、 ブリコラージュ、デクパージュ、モンタージュ、カモフラージュ、カットアップ、 マッシュアップ、サンプリング&リミックス、アイロニカル・ジャクスタポジション、 リバース・エンジニアリング、インスタレーション、ホームワークなどなど、 そのほかいろいろな手法の混合技法(ミクストメディア)でつくられています。 こうしたテクニックは、 現代美術の作品づくりや グラフィック・デザイン、 展覧会のディレクション等の 雑多な仕事のなかで、そのつど 現場で実地に身につけたもので、 いずれこれを「民族誌」に応用してみる、 (M・タウシグのこの本はそれに近い) その前にまず「文化人類学」の講義に 実験的に応用してみたのが、いま、皆さんが出席している、この講義です。 通常の「文化人類学」の講義なら、進化論からはじまって→機能主義→ →構造主義→ポスト構造主義、という具合に直線的に進むか、あるいは、 テーマや地域をしぼってモノグラフ的に展開するのですが、この講義は、 そういう風には進まず、BLOGの特性を活かして、あっち+こっちに トラッキングしながら展開してゆきます。なかには途中で道に迷う人も いるでしょうが、道に迷わないような旅は旅ではありませんから、 迷うことをおそれずに、ついてこれるところまでついてきてください。 ロサルドの「文化の定義」にあったように、文化の研究である、 文化人類学もまた、「さまざまの異なったプロセスが、 その境界線の内側と外側とから縦横無尽に行き交う 透明性の高い交差点の連続」なのですから。 #
by mal2000
| 2005-02-16 15:13
では、ひとまず、このへんを、
折りかえし地点にして、次は、 文化人類学がどのようにして 文化の研究の「王様」としての ポジションを築きあげてきたかを、 歴史的に、というよりは、レトロ スペクティヴに、そして、いくらか ノスタルジックに、見てみたいと思います。 そこでのキーワードは「・・・ではない」と「モダン」です。 #
by mal2000
| 2005-02-12 06:14
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