はじめに
指導教授は にこやかな顔で 言いました。 自然科学のような ふりをしてる詩を 学んでみてはどうかね? そんなことが できるんですか!? 指導教授は 私の手を握って 言いました。 社会人類学もしくは 文化人類学の世界に きみを歓迎するよ。 カート・ヴォネガット 人類学者というのは、 作家、小説家、詩人に なりそこねた人たち なのです。 J・クリフォード その他のジャンル
|
この講義では、文化人類学を問い詰めるような話ばかりが続いたので、
このへんで文化人類学の黄金時代もすこし紹介します。 6-1: モダンな人類学の黄金時代 (1920s-1940s) >>>Charlie Parker と Dizzy Gillespie のAnthropologyを聴く 6-2: サイケな人類学の黄金時代 (1950s-1980s) 6-3: 構造主義人類学の灰色の黄金時代 (1950s-1970s) (別名・90 6-3:ポスト・モダンな人類学の暗黒時代 (1990s-2000s) >>>Lance Grabmiller と John Bergine の "Theme For, Anthropology, Shallow-Glass-Ashland-Night-Driving"と V-ice の "Anthropology 101" と CP&DG の Anthropology を マッシュアップしものを聴く→re:anthros-mash-pologix #
by mal2000
| 2005-01-11 11:13
▼「人類の進歩とヤキイモとタコヤキ」 (THE PROGRESS OF HOMOSAPIENCE DUB) カラー 3分28秒 日本語字幕つき 後期の「文化人類学解放講座」の最初の数回の講義では、みなさんたちも たぶん、もう、耳たぶでタコヤキが焼けるくらい聞きあきてしまったコトバだと 思う「グローバリゼーション」というものをもういっぺんその原点のほうまで ひきづりもどして、そこから、「グローバリゼーション」というものを、より遠く まで考えぬいてゆくための長い序奏のようなものとして、スケールの大きな 映画をみます。まず最初に見るのは次の3本です。 ▼ゴドフリー・レジオ監督 「コヤニスカッティ」(1983年) ▼ブルース・コナー編集 「クロス・ロード」(1976年) ▼ウィリアム・バシンスキー撮影 「ディスインテグレーションループ第一番」(2001年) とんで、12月頃の講義では、ファーストフード(マクドナルド)や ブランド・シューズ(ナイキ)、キャラクターズ・グッズ(ディズニー)など、 ぼくたち/わたしたちの日常生活の現場とその身のまわりにころがってる モノから「グローバリゼーション」を至近距離で考えてゆきますが、 そこではたぶんすっきりとした出口や解答がみえにくくなってしまう と思いますので、そこで思考を窒息させてしまわないために、 まずスケールの大きな地球サイズの映画をみておいて、 それを、思考がとまりかけたときに想像力でもういっぺん そのネジをまきなおすための糧にしたいと思います。 そこでまずはじめに、「グローバリゼーション」という、 まだ見通しの立ってない、そして、ついつい、あたまでっかちな話に なりがちな問題を「グ ・ ロ ・ ー ・ バ ・ リ ・ ゼ ・ ー ・ シ ・ ョ ・ ン」 という感じにひらいてゆくために、それを「ち、き、ゅ、う、の、じ、け、ん」 としてとらえ、ちょっとカタイいことばですが、「文明批評」という古くからある ジャンルのはなしにいったん、つなぎなおしてみたいと思います。 そこでまずは「コヤニスカッティ」という映画をみて、 「グローバリズム」の「ブローブ=地球」そのものに 目をひらいてみるということからはじめたいと思います。 次にみる「クロスロード」は、「コヤニスカッティ」のような 人類に警告を発するような映画が制作されたいきさつや その時代背景を知るためのもの、であるのと同時に、 今年は原爆投下から60年目の年であり、また来年は 第五福竜丸事件から50年目の年でもあるので、 その意味でも、いま、特に観ておきたいと思います。 最後にみる「ディスインテグレーション・ループ第一番」は、 はじめはどこかステキなものに思えた「グローバリゼーション」 というものが、やがてその圧倒的な負の部分をおもてに さらすことになっていく、そのきっかけとなった事件を しずかに記録した作品としてみることにします。 参考までに、この3本のアート系ドキュメント・フィルムをつづけて みるときのキーワードは「文明」「バランスのこわれた世界」 「テクノロジー」「悪魔の発明」そして「黙示録的予言」がそれです。 実際、この3本の映画にはストーリーも、ナレーションも字幕も なんにもありません。唯一例外として引用されるのは、 アメリカ先住民ホピ族のことばと予言だけです。と もあれ理屈や物語はあとまわしにして、まずは目で体験し、 それを記憶にとどめることから始めてみて下さい。 その次は、視点の標高をもうすこし地面や海面の方に移し、 人間の生活サイズのことがらに焦点をしぼってゆくために、 次の2本の映画をみます。 ヴェルナー・ヘルツォーク監督 「緑のアリの夢みるところ」(1984年) スカイヴィジュアルズ制作 「クラ・島々をめぐる神秘の輪」 「緑のアリの夢みるところ」はオーストラリアの先住民と 企業との衝突を描いたフィクションです。この映画には、 物語のなかの登場人物として文化人類学者が2人でてきますので、 前期の「文化人類学者になりしました人たち」のつづきとしてみてください。 「クラ・島々をめぐる神秘の輪」は、前期の講義でみた トロブリアンド諸島の「クラ」のその後のはなしとしてみると同時に、 テクノロジーの問題などにひきつけてみてもよいかと思います。 以上が10月から12月にかけての講義のおおまかなプログラムです。 あとの具体的な内容のはなしは、そのつど教室で。 ---------------------------------------------------- *注意: 映画の上映は10月3日(月)の講義から開始します。 前日はよく睡眠をとり、体調をととのえた上で、 定刻どおりに教室に集まってください。 #
by mal2000
| 2004-01-01 07:28
【コヤニスカッティ】(名詞) ko・yaa・nis・qatsi(ホピ語) (1) 正気をなくした生活 (2) 混乱した暮らし (3) バランスをうしなった人生 (4) でたらめな生活 (5) 他の生活様式をおびやかす生き方 「コヤニスカッティ」(1983年) ゴドフリー・レジオ監督 ロン・フリック撮影 フィリップ・グラス音楽 フランシス・コッポラ制作協力 86分 カラー この映画はナレーションも字幕もストーリーも何もない、まったく無言の ドキュメント映画ですが、それだけにこの作品は「アポカリプス(黙示録)」 的な「映像詩」として、ことばでは伝えることのできない何ごとかを物語っ ています。この映画が公開されたのは、1983年ですが、2005年の いまから見ると、いくつかのシークエンスは、その後に世界で起こった 事件や事故を、あたかも予言していたかのようにも見えてしまいます。 この講義では「グローバリゼーション」という、その結末がまだはっきりと 見えてない「ち、き、ゅ、う、の、じ、け、ん」が、いままさに、進行している 地球というこの惑星についての、なにごとかを目で見て「体験する映画」 として見ることにします。ちなみに、現代音楽家の武満徹さんによれば、 「この映画は、大きな会場で、大きな画面で、大勢で観るべきだ」という ことですので、今回は大講義室のスクリーンをつかって、なるべく大きな 音で、なるべくたくさんの受講者と一緒に目撃したいと思いますので、 この講義にはなるべく出席するようにしてください。 この講義に限り、講義開始時刻になったら、解説ぬきで上映を開始し、 講義終了時刻まで上映したら、そのまま解説ぬきで講義を終わります。 その理由はふたつあります。この映画が86分あるということがまずひとつ。 もうひとつは、この作品が、解説やナレーションをあえて使わずに映像だけ で何かを語る実験としてつくられているからで、そういうコンセプトと内容の 作品であれば、上映する形式もそれにあわせるのが、それに合った ふさわしいやりかただと思うからです。 *講義に出席しそこねた人は代わりにこれをみておいてください。 ↓ #公式サイト http://www.koyaanisqatsi.org/films/koyaanisqatsi.php #スチル画像 http://www.spiritofbaraka.com/koyaanis.aspx #予告編をみる ------------------------------------------------------------------- 今日の講義では「コヤニスカッティ」を見ました。 はじめからおわりまで一瞬も見のがさずぜんぶ見た人は、さすがに、 ぐったり、つかれ果てたことだろうと思います。でも泣いても笑っても これが僕らが生きてる世界です。 世界の終わりや終末を暗示するような映像や予言もありましたが、 この映画はゴールではなく、あくまで、スタートだと考えて下さい。 というのも今のところ、この地球以外に人が暮らしてゆける場所は ないので、さしあたりこの世界のどこかに自分たちが生き(のび)て ゆく場所を見つけてゆくよりほかないからで、この映画はその場所 さがしの、はじまりなのだと考えて下さい。 それに実のところ「グローバリゼーション」というのは、この映画の 直後からはじまるのです。グローバリゼーションについての講義 の一回目の今日は、グローバリゼーションというものを、まずは、 この映画をとおして目撃したような、バランスのこわれた生活や きちがいじみた人生が、地球の残りの部分にまでひろがってゆく プロセスだと考えておいてください。しかも、もうその残りの部分は かなり少なくなってきているのだいうことも、忘れずに一緒につけ くわえて考えておいてください。 では、このつづきは、また来週。 [追記] この映画と文化人類学の つながりがわからなかった人は、 このドキュメント映画は「火星人 の文化人類学者」が二〇世紀末 の「地球の文化」を研究してつく った映像による「地球の民族誌」 だと考えてみてください。そういう ふうに考えたらつながりもわかる でしょ。 #
by mal2000
| 2003-12-31 23:59
「大地の底から貴(たっと)きものが掘りだされるとき、 われらは大いなる災厄をまねきよせることになるだろう。 巨大なクモの巣が空一面をおおい、人類最期の日がやってくる。 灰の容れ物が空から投げ落とされると、大地は火の海となり、 海が沸きあがって、たちまち干れ果てることになるだろう」 映画「コヤニスカッティ」より「ホピ族の予言」 ------------------------------------------- 「カッティ三部作が 提供するのは、 体験であって、 思想や情報では ないのです、 ましてや....」 ▲グレッグ・カーソン監督 「生活の本質」 (2002年) 今回は、1983年(日本は1984年)の「コヤニスカッティ」の公開から 約20年後にゴドフリー・レジオ監督みずからが「コヤニスカッティ」について 語ったドキュメント映画「生活の本質」を、まずはじめにみることにします。 そこでは「テクノロジー」ということがキーワードのひとつになりますが、 さらにそれを補足するものとして「スクラップ&ビルド」や「モダニズム」 ということもあわせて考えてみたいと思います。 「なぜ、われわれ人間は、 こんなにもテクノロジーを 愛するのか?」 (ポール・ヴィリリオ) 次に、テクノロジーとその文明に対する冷徹な批評である、この作品の 背景にあった具体的史実(例:1945年にヒロシマとナガサキに投下さ れた原子爆弾はホピ族の土地から採掘されたウラニウムから製造さ れたものだった)や時代背景(冷戦時代)とからめて、この作品が制作 されていた時期(1976-1983年)より、ちょっと前に映像作家の ブルース・コナーが制作した「クロスロード」を見ることにします。 ▲ブルース・コナー監督 「クロスロード」 (1974年) ▲岡本太郎「明日の神話」 (1967-1969年) 次に、「新たなテクノロジーの発明は、新たな事故の発明でもある」とする フランスの思想家ポール・ヴィリリオが監修した「まるで未知数なるもの」展 (2003年)の「事故の博物館」を見学し、「コヤニスカッツイ」以前/以後に 起こった「テクノロジーの暗部」ともいうべき「事故史」を見ることにします。 ポール・ヴィヴィリオ監修 「まるで未知数なるもの Unknown Quantity」展より 「事故の博物館」 01| 産業事故 02| 航空事故 03| 計画された事故 次に、ヴィリリオが「計画された事故」に分類している「事故」で、 「ブリコラージュ・テロ」などとも呼ばれた9.11の「事件」の日の NYの風景を記録したアート・ドキュメントフィルムをみます。 ▲ウィリアム・バシンスキー撮影 「ディスインテグレーション・ループ」 (2001年) 最後に、9.11の「事故/事件」が起きる20年前、まだNYという街が 世界の市場と金融の中心ではなく、前衛芸術の中心だった頃、 そこで暮らす人びとの様子と文化を記録したコンテンポラリーな 民族誌フィルムを見ることにします。 ▲ヘンリー・ヒルズ監督「マニー」(1985年) 事故と背中合わせのテクノロジーが世界のすみずみにまでひろがってゆく グローバリゼーションの巨大な津波、あるいは、その地殻変動によって、 文化の何がうしなわれ、また、ひとびとの暮らしはどうかわったか、 そして、「ち、き、ゅ、う」という名のこの「宇宙船」はどこにむかっているのか。 学問のことばによっては、なかなかとらえることがむずかしい、 その未だ未知数なるものを、これらの詩的な映像から、 まずは感じとってみてください。 次回は、オーストラリアの先住民(アボリジニ)の土地を舞台に、 テクノロジーと伝統文化の衝突を描いた劇作(フィクション)映画 ▼「緑のアリの夢見るところ」(1984年)を見ます。 #
by mal2000
| 2003-11-24 01:57
「緑のアリが夢見るところ Wo die grünen Ameisen träumen」
ヴェルナー・ヘルツォーク監督 1984年 カラー 1時間40分 「これは環境論者の映画ではありません。人びとが地球をどう扱って いるのか、という、もっと深い次元の話なのです」(W・ヘルツオーク) ................................................................................. ▼人類学者になりすました人びと (「緑のアリ」法廷シーンより) この映画には、土地の所有権をめぐって鉱山会社にたいして訴訟を起こした 先住民側の証人として、ふたりの文化人類学者が登場します。前期の講義でも、 「人類学者になりすました人びと」という視点から、映画に登場する文化人類学者に わりふられた役どころやものの考え方、立場や主張を見てきました。それらを改めて 思い出しながら、このふたりの人類学者の言動を通じて、いま世界で起こっている グローバリゼーションと、文化人類学とかかわりについて考えてみたいと思います。 ■スタナー(人類学者) ■アーノルド(元人類学者) 「この分野はまだ仮説の段階でして、 「進歩は、先住民にとって、 人類学の学説にはなってません」 白人文明による文化の抹殺でした」 ................................................................................. ▼セミ・フィクション~先住民を演じた先住民の芸術/活動家 [右] ワンドゥク・マリカ Wandjuk Marika (1927-1987) オーストラリアのプレーマー・アイランド生まれ。父から秘儀を記した図象の 描き方を伝授される。1967年、父の跡を継ぎ、コミュニティのリーダーとなり、 先住民芸術の画家、詩人、作曲家としても活動。1970年から1972年にかけ、 同地でボーキサイトの採掘をしようとしたスイスのナバルコ鉱山会社に対して 合法的な抵抗運動を行う(しかし裁判所が下した裁定は映画と同じく鉱山会社 に有利なものだった)1976年、ディジュリドゥ奏者として「ポートモレスビーの ワンジュク・マリカ (Wandjuk Marika in Port Moresby)」(EP)をリリース。 また同じ年に出版された文化人類学者ロナルド・バーンの著書「Love Songs of Arnhem Land」にも多くの伝承や知識を提供する。1979年頃からテレビ、 ラジオなどに出演するようになり、1984年に公開された「緑のアリが夢見るところ」 でミリリトゥビ役を演じる。自叙伝として「ライフ・ストーリー」(1995年)があるほか、 先住民芸術協会(Aboriginal Arts Board)の議長をつとめる。1987年没。 *先住民芸術のコピーライトの問題についてのワンジュク・マリカの見解(1975) It is not that we object to people reproducing our work, but it is essential that we be consulted first, for only we know if a particular painting is of special sacred significance, to be seen only by certain members of a tribe, and only we can give permission for our own work of art to be reproduced. It is hard to imagine the works of great Australian artists such as Pro Hart or Sidney Nolan being reproduced without their permission. We are only asking that we be granted the same recognition, that our works be respected and that we be acknowledged as the rightful owners of our own works of art. “Copyright on Aboriginal Art” Aboriginal News Vol. 3(1) 1975. ................................................................................. ▼サイモン・ミツラーヒによるヘルツオークへのインタビュー(1984年)より 冒頭のシーン 蟻塚の点在する 原野が創作された 風景であることを あらかじめ告げている Q:緑のアリの神話とはいったい何ですか? A:それは根本的には、後からつくられた神話、つまり創作です。 われわれは人類学者のようにふるまうつもりはありません。(...) 彼らのまわりには、彼らのことなら何でも知っていると主張し、 彼らの擁護者になろうとする欺瞞的な人間があまりに多くいます。 伝道師、人類学者、政治活動や政治家ですが、私にいわせれば、 そういう人々はいんちきです。私はたしかに、ある程度、先住民の ことを理解していますが、我われの理解は限られています。 あなたが、たとえ25年彼らと共に 暮らし、彼らの言葉を話せたとしても、 彼らのような複雑な家族構成や神話 を自分のものにすることはできません。 ですから私は私自身の神話をつくり たかったのです。私は何か先住民の 考え方や生活様式に近づける伝説や 神話がほしかったのです。だから、 私は彼らに対し、この映画は彼らの夢ではなく、私の夢なのだということを はっきりさせました。彼らの主張を私の主張だなどということはできませんし、 それはばかげたことです。(...) 私も誰も彼らを守ることはできません。 こうして我々は文化的に貧しくなり、最後には裸で放り出され、 地球にはマクドナルドだけが残る。世界の東西を問わず、悲劇は、 進行中なのです。 ................................................................................. ▼悲劇は進行中~ジャビルカ 「ジャビルカ jabiluka」 監督: デビッド・ブラッドベリ 1998年 カラー 53分 「白人から土地をとりもどすこと。私たちが求めているのは、ただ、それだけなんだ」 「ウラン採掘権ではなく土地権を!」 「ここはアボリジニーの土地で、アボリジニーの 生き方があるの。だから白人はよく耳をすまして聞き、そして、信じなさい。いったい、 何回云ったら分かるのかしらね?」 映画「ジャビルカ」より 「緑のアリが夢見るところ」の舞台となったオーストラリアでは、 先住民と土地開発企業との、土地/資源(特にウラン採掘)を めぐる争議が、いまなお進行中です。そしてグローバリゼーション が進んだ現在、これはオーストラリア国内だけの問題ではありません。 というのも、現地のウラン採掘会社に 開発資本を投資しているのは、原子力発電を 推進している日本の電力会社だからであり、 この問題は、電力とテクノロジーにたよって 生活している私たちの日常の暮らし(方)に、 つながっているのです。そうなると私たちは、 左の写真のどの役柄にあたるのでしょうか? ................................................................................. ▼おわりとはじまりの音と映像から ■ガブリエル・フォーレ「レクイエム」 ■エルネスト・ブロッホ「荒野の声」 [最後から2番目の3つの質問] Q:この映画は、フォーレが作曲した「レクイエム(鎮魂歌)」ではじまりますが、それは 何にたいするレクイエムなのでしょうか?同じく、この映画はブロッホの「荒野の声」と いう曲でおわりますが、その声は何を告げる声なのでしょうか?また、映画のはじめと おわりに出てくる砂嵐と竜巻の映像で、作家は何を表現しようとしたのでしょうか。 [最後の質問] Q:この映画には「職業としての文化人類学者」(スタナー)と、それを「廃業した元・文化 人類学者」(アーノルド)(になりすました)人物が、ふたり登場しますが、それ以外に、 あともうひとり、文化人類学者(になりそこねて)、「第三の人類学者」になりはじめた 人物が登場します、それは誰でしょう。ヒントは、異文化と他者のものの考え方や 生き方を知り、「生き方としての文化人類学者」となって、かつて自分がやってきた 方角とは別の方角にむかって、ひとりで歩き出した人物です。ちなみに、こたえは ひとつとは限りません。場合によっては、たくさんあるかもしれません。それは映画 を観た人たち次第です。 #
by mal2000
| 2003-10-27 07:04
| |||||
ファン申請 |
||